大津波に襲われる仙台平野・名取市(閖上:ゆりあげ)と岩沼市沿岸

東日本大震災の大津波の実態を報道記事を通して検証するサイトです

◇更新情報◇◇◇2012年1月28日現在

  


 記憶の部屋について

 東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

 私は宮城県内で東日本大震災を体験しました。しかし、大津波が沿岸一帯を襲っていたこと知ったのは、襲来の1時間余り後、カーラジオの放送でした。映像が無いためなぜか実感が無かったことを覚えています。甚大な被害を映像で確認できたのは、大震災から丸4日後の夜。やっと停電が復旧した喜びの中で見たテレビでした。こんなことになっていたなんて…。

 余りにも大きな被害に、今でも信じられない気持ちです。この甚大な被害が地震後の大津波によることはご承知のとおりです。地震だけなら、これだけ多くの人命が失われることはなかった。

 仙台市内では、大津波が海岸から4㌔余りも平野を駆け上がりましたので、逃げたつもりの人々さえ波にのみ込まれたのです。車で避難しようとした方々もたくさん巻き込まれました。家に居た方々は、停電のためテレビからの情報が得られず、大きな津波が来ることを知らなかったことが考えられますが、車で移動中の方は、ラジオやカーナビ画面から情報を得ていたはずなのです。なのに、逃げ遅れてしまった。

 かつて、津波被害を幾度となく体験している三陸沿岸でさえも甚大な人的被害を被っています。

 あれだけ激しく長かった大地震だったのに、その後、人々はどのように考え、行動したのか。どうして助かり、どうして助からなかったのか。震災後、その実体が報道によって次第に明らかとなってきました。

 私は、地元の新聞「河北新報」を購読していますので、地元の多くの記者が足を運んで取材して発信し続けた報道内容を中心に、この未曾有の大災害を記憶しておくための部屋を残すことに致しました。
 データを残すにあたり、テキストだけよりも一見して分かる見出しが特徴である実際の紙面を添える方が被災の全体像が把握しやすいことから、関連紙面を見出しが読める程度の圧縮画像として添付することにしました。

大震災から4ヶ月余り経った7月下旬の仙台市若林区荒浜の防潮堤の上から撮影

 上の写真は、大震災から4ヶ月余り経った7月下旬の仙台市若林区荒浜の防潮堤の上から撮影しました。
 砂浜も防潮堤(海面からの高さ6.2㍍)も、この海岸に押し寄せた高さ約9.4㍍の津波には耐えたことが分ります。しかし、この堤防の平野側には所々に激しい波でえぐられた大きな穴(深さ約2㍍)が残っており、また、まばらに残った松林の枝が失われている高さまで津波が覆ったことを想像すると、この地区の住民は鉄筋の高い建物に駆け上がるか、はるか内陸へ逃げる以外に助かる道はなかったことをこの場で実感できます。


大震災の新聞報道・朝刊第一報【3月12日:河北新報】

 3月11日の地震直後から全域が停電。得られる情報は携帯ラジオか車のカーナビ映像のみという中、一夜が明けた被災地・仙台には、全8ページ構成ながら、地元紙・河北新報の朝刊が配達されました。まずはその衝撃の紙面です。私にとってはラジオでしか得られなかった被災状況の一端を初めて画像で認識できたのが、この紙面でした。
【紙面の詳細は、河北新報社出版:3.11大震災の記録(DVD‐PDFファイル版:1,260円)で確認することができます。ただし、3月13日以降の紙面は、代表的な記事以外は収録されていないというのが私の感想です。】

河北新報社3月12日朝刊第1面と第8面の見開き

河北新報社3月12日朝刊第3面

河北新報社3月12日朝刊第2面

河北新報社3月12日朝刊第4面

河北新報社3月12日朝刊第7面

河北新報社3月12日朝刊第6面


                                  ページのトップへ戻る

 3・11ドキュメント

 河北新報社が3月12日朝刊第3面右下に掲載した大震災当日の地震発生(14:46)から17:00過ぎまでのドキュメントです。なお、原発関連の震災発生から2日間のドキュメント(毎日新聞社)は、原発事故・放射線のページです。
  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
14時46分ごろ 宮城県北部で震度7の地震。震源地は三陸沖で、マグニチュード(M)8.8は観測史上最大
14:49=気象庁が岩手、宮城、福島、青森、茨城、千葉の太平洋沿岸に大津波警報発令。
    北海道から伊豆諸島にかけて津波警報。各地で被害
14:50=首相官邸危機管理センターに官邸対策室を設置
14:52=岩手県知事が陸上自衛隊に災害派遣を要請。その後、宮城、福島、青森の3県も要請
14:55ごろ=太平洋津波警報センター(米ハワイ)がロシアや北マリアナ諸島などにも津波警報
15:00=東北電力女川原発を始め東京電力福島第1原発、第2原発、日本原子力発電東海第2原発の計11基が
    自動停止
15:04=仙台空港によると、空港への飛行機の離着陸を全て停止
15:05=航空自衛隊の戦闘機6機が被害確認のため出動。仙台市で大規模停電やガス漏れ、火災
15:08=JR東日本管内の新幹線が地震直後から終日運休。東海道・山陽新幹線も東京―博多間で一時運転見合わせ
15:14=警察庁が緊急警備対策本部を設置。首相官邸危機管理センターで緊急災害対策本部
15:15=宮城県利府町でショッピングセンター天井が落下し2人下敷き
15:15ごろ=茨城県の鉾田で震度6弱の地震。震源地は茨城県沖でマグニチュード(M)7.4
15:17=成田空港は地震直後から滑走路を一時閉鎖
15:25=海上自衛隊横須賀基地に停泊中の全艦艇が宮城県沖へ向う
15:32=岩手県釜石市で最大4.2㍍の津波、港で車が多数流される
15:55=仙台新港で高さ約10㍍の津波を確認
16:00=気象庁が記者会見
16:07=埼玉県内で約48万軒が停電
16:09=都内の数ヶ所で火災発生
16:11=岩手県釜石市で橋が崩落
16:12=全閣僚出席の緊急災害対策本部
16:13=青森、秋田、岩手県で停電が発生、宮城、山形両県もほぼ全域で停電
16:23=茨城県高萩市で建物の屋根が崩落、1人死亡
16:32=高知県の太平洋沿岸の19市町村が住民に避難指示など出す
16:36=栃木県芳賀町の工場で壁が崩れ、女性死亡
16:40=茨城県鹿嶋市の鹿島神宮で鳥居崩壊
16:46=千葉県野田市で男性が倒れた石塀で頭を打ち、死亡
16:52=仙台市太白区の旅館が倒壊、中から人の声が聞こえると110番
16:53=仙台市宮城野区で男子中学生が流されて行方不明
16:55=菅直人首相が記者会見し「国民の安全確保と被害を最小限に抑えるため
    政府として総力を挙げる」と強調
16:55=宮城県登米市で12人が重軽傷
17:10=岩手県久慈市で車が流され、1人死亡
17:13=千葉県市原市の製油所付近で爆発


                                  ページのトップへ戻る

 大震災当日・管理人の体験

 私の自宅はは仙台市内です。

 大震災には仕事先で遭遇しました。
   
 仕事先は自宅から車で約40分ほど南の柴田町内にあり、PCに向かってデータの入力中でした。まず、胸ポケットの携帯がけたたましく緊急地震速報のアラーム音を発します。周囲に居た社員からも同じく警報音が鳴り響くとまもなく、揺れが始まりました。意外と静かな始まり方だなと感じながら、携帯の画面を開くと、「宮城県沖で大きな地震が発生しました」と表示されているため、「もしや、これが宮城県沖地震?」と思ったのを覚えています。

 やがて、激しい横揺れとなりましたが、1分間ぐらいで収束の気配だったので、「この程度か」と思った途端、今まで経験したことがないもの凄い横揺れが襲ってきたのです。天井からは砂埃のようなものが降り注ぎ始め、停電となり、少々の地震では動じない私も机の下に潜り込むしかありませんでした。もちろん、入力中のデータ保存なんかできるはずもありません。

 長い揺れが収まって、部屋を見渡すと、あちらこちらで棚が倒れ、机の上にあったPCが床に落下したり、天井の蛍光灯の金具が壊れて落下したりで、足の踏み場がない惨状となっておりました。なんとか外へ出ても、強烈な余震が何度となく襲い、雪が舞う中で寒さに耐える他はありませんでした。地震から1時間近く経って、誰かが、「7㍍の津波らしいよ」と携帯が繋がった家族からの情報を教えてくれたのです。「そうか、津波のことを忘れていた」とは自分のそのときの感想です。

 停電ですし、余震も頻発していますから、会社は臨時休業となり、家路に着くことに。と、国道は仙台市に向かう車線は大渋滞。「我が家はどうなったろう、築40年の実家は潰れていないだろうか。早く帰らなければ・・・」

 結局、国道は使わずに、山越えの峠道を走ることにしました。実はこの日、帰りにガソリンを給油する予定だったので燃料計はほとんど空だったのです。何とか自宅までは持ってくれましたが、その後、あのガソリン危機に難儀するとは考えてもいませんでした。

 その帰宅途中、ときどき買い物に立ち寄る生協に人が並んでいる列を発見しました。咄嗟に、自分も何か買って帰らなければと思い、並ぶことにしました。生協の店内は地震で滅茶苦茶になったようで、外に机を並べ緊急販売を行っていたのです。販売条件は「一人千円で5品までです!」。私はローソク1箱、食パン1斤、おはぎ2パック、乾電池1パックを購入。さらに、車で2分先のホームセンターでも並んで、ここでは、水2㍑、懐中電灯と電池を購入することができました。

 家に着くと真っ暗。夜、2時間近く歩いて帰ってきたという子供たちと寄り添い、ローソクの灯りを囲んでささやかな夕食を味わったことが思い出されます。

 電気と水は、5日後に復旧しましたが、ガスが開通したのは4月15日でした。震災から2週間は、毎日買出しの列に並びました。3時間ほど並ぶときもありましたが、並びながら空を見上げると、ヘリコプターが頻繁に行き交っており、買い物に並ぶことができる私たちは文句なんか言えないことを噛み締めました。


                                   ページのトップへ戻る

 記事および報道内容の分類

  • 大津波の証言=地域毎、報道時間順に編集しており、大震災当時を振り返ることができます。
  • 大津波の悲劇=大川小学校(石巻)に代表される津波の悲惨さ・体験談についての報道記事。
  • 大津波への対応=大津波へ備えとその効果、地震後の対応はどうだったか、今後の対応の報道を追います。
  • 原発事故・放射線=時間を追いながら、福島第一原発の深刻な状況と放射線の影響を検証します。
  • 復旧・復興=動き出したばかりで、これからが重要です。今後時間をかけて追ってみます。
  • サイトマップ=現時点でのアップロード済みの構成となります。
 *** 管理人より ***
コツコツと編集しておりますので、今後作成するページがほとんどです。今後時間をかけて充実させて行く所存です。どうかこれからもときどきご訪問されることを願っております。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ページのトップへ戻る