防潮堤過信も 「教訓次世代へ」誓う 【宮古・田老地区】
<4月10日・河北新報>
■「この防潮堤なら大丈夫だ」との過信が犠牲者を増やしてしまった。高さ10mの防潮堤は最大波高10mだった昭和三陸大津波で壊滅した直後に建設が始まった。しかし明治三陸大津波の最大波高は15mであり、先人たちは避難用高台や経路を整備しており、防潮堤が完全に津波を食い止めることは考えていなかったのである。因みに、今回の田老地区を襲った津波の最大波高は20メートルだった。
■写真◇堤防を越え、住宅に押し寄せる津波=3月11日午後3時30分ごろ、宮古市田老(畠山昌彦さん提供)
■記事のテキスト
宮古市田老地区は44年の歳月をかけ「万里の長城」とも呼ばれた巨大防潮堤を築き、津波に備えてきた。だが今回、津波はその防潮堤を越えて田老地区を襲い、地区内の死者、行方不明者(4日現在)は合わせて230人を超えた〔8月3日現在同185人〕。住民らは「防潮堤への過信もあった」と振り返る一方、教訓を次世代につなげようと誓っている。
巨大防潮堤は、地区内で死者、行方不明者911人が出た昭和三陸津波(1933年)の教訓から、旧田老町の中心部を2重に守るように整備された。陸側は1934年に着工し、57年完成。海岸側は62年に着工し78年に完成した。
いずれも高さ10メートル、総延長は2.4キロに達し、1960年のチリ地震津波から町を守ったことは田老住民の誇りだった。
地区の山本麻美子さん(31)は地震発生時、母恵子さん(57)と自宅にいた。避難を促すと、恵子さんは「犬がいるから逃げられない」ととどまり、犠牲になった。山本さんは「防潮堤があるから地震もどこか人ごとだった。こんな悪夢が現実に起こるなんて」とつぶやく。
旧田老町の消防団長を15年間務めた山崎勘一さん(76)も「この防潮堤なら大丈夫だと思っていた。ショックだ」とうなだれる。
旧田老町で防災を担当した宮古市職員山崎正幸さん(45)によると、防潮堤は本来、津波を完全に食い止めるためではなく、中心部への直撃を避けるため、山あいを流れる2本の川に津波を誘導することを目的に設計されたという。
防潮堤の整備と同時にまちづくりの発想も大きく転換。中心部の土地は津波からいち早く避難できるように、高台に向かって盛り土した。碁盤の目状に整備した道路の交差点も人が曲がりやすくするため、直角にならないように「隅切り」を施した。
山崎さんは「明治三陸大津波は波高が最大15メートルに達した。先人たちは防潮堤を築いても、なお津波被害が発生することを想定し、避難の大切さに目を向けていた」と指摘する。
初めに整備された防潮堤の外側にも住民が住むようになり、防潮堤は2重になった。コンクリートの壁と壁の間にできた新たな住宅地は、昭和三陸津波の直後に開発された中心部に比べ、避難しにくい構造となっていた。
今回の津波は陸側の防潮堤も越え、被害は田老地区全体に及んだが、二つの防潮堤の間の地区は特に壊滅的な打撃を受けた。(野内貴史、古賀佑美)