明治三陸大津波で国内最高38.2㍍  高台に住居 浸水防ぐ
                    <3月27日・河北新報>

■25メートル前後の津波が押し寄せたとみられるが、地区住民のほとんどが過去の教訓を生かして高台に住み、被害を免れた。

 

■記事のテキスト 

教訓生かし被害ゼロ

 明治三陸大津波で国内最高38.2メートル

 明治三陸大津波(1896年)で国内観測史上最高の38.2メートルの津波を記録した大船渡市綾里白浜。東日本大震災でも25メートル前後の津波が押し寄せたとみられるが、地区住民のほとんどが過去の教訓を生かして高台に住み、被害を免れた。

 綾里白浜が湾奥部にある綾里湾はV字形の湾。外洋に面した湾の入り口の幅は約4キロあるが、湾奥部は500メートルに狭まっている。津波が奥に入り込むにつれてエネルギーと水かさも凝縮されるため、津波が強大化する。
 住民の話や流された漁具などの形跡から判断すると、震災での津波は海岸から水田を駆け上がった後、水田と約3メートル上にある県道との間ののり面にぶつかり、収まった。県道は標高30メートル前後を通っていることから、津波は25メートル前後まで到達していたと推測できる。

 小学生の時に昭和三陸津波(1933年)を体験した熊谷サワイさん(85)は「昭和三陸津波とほぼ同じ場所まで波が上がった。怖くて、家が流された70年以上も前の記憶がよみがえった」と語る。
 威力も壮絶だった。湾内に沈められた約3メートルの巨大な消波ブロックが浜辺に打ち上げられた。浜辺を囲んだ高さ約3メートル、幅約1メートルの分厚いコンクリートの防潮堤は20以上に細切れにされ、200メートルほど吹き飛ばされていた。

 高台に住居 浸水防ぐ

 だが、約60世帯が住む綾里白浜地区は家屋の浸水さえなく、人的被害はゼロ。昭和三陸津波の後、住民は津波の到達点より高い場所に自宅を再建した。世代が代わっても津波が通る経路や到達点が語り継がれ、地区全体で昭和三陸津波クラスの津波に備えていたという。

 昭和三陸津波で親族が犠牲になった沢武雄さん(76)は「今回の津波は昭和よりもずっと大きかった。分厚い防潮堤が津波の力を弱めたはずだ。それがなかったら、被害が出ていたかもしれない」と冷静に分析した。
 (中村洋介)


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大津波への対応