宮古・姉吉地区 石碑の教え守る <4月10日・河北新報>
■海抜約60メートルの地点に建立された石碑の教えを守り続けてきた宮古市重茂の姉吉地区は、津波による建物被害が1軒もなかった。
■上の紙面画像が読み難い方のために、記事のテキストを以下に掲載します。
「此処より下に家を建てるな」 石碑の教え守る<宮古・姉吉地区>
宮古・姉吉地区
「此処(ここ)より下に家を建てるな」。先人の警告を刻んだ石碑が立つ宮古市重茂の姉吉地区(11世帯、約40人)。沿岸部の家々が津波で押し流された宮古市で、ここは建物被害が1軒もなかった。海抜約60メートルの地点に建立された石碑の教えを守り続けてきた住民は、あらためて教訓の重さを胸に刻んでいる。
姉吉地区は、明治三陸大津波(1896年)で60人以上が死亡し、生存者は2人だけ。昭和三陸津波(1933年)では100人以上が犠牲になり、生き残ったのは4人。2度とも壊滅的な被害に遭った。石碑は昭和三陸津波の後、住民の浄財によって建てられた。
津波は今回、漁港から坂道を約800メートル上った場所にある石碑の約70メートル手前まで迫ったという。海辺にいた住民らは地震後、坂を駆け上がって自宅に戻り、難を逃れた。
海岸近くに船を浮かべ、ワカメ採りの準備をしていた姉石勇さん(69)は、山が崩れるのを見て地震を知り、すぐに自宅に帰った。
「家まで上がれば、津波が来ても大丈夫という気持ちがある」と話す。
津波は、湾の堤防を打ち壊し、コンクリートの巨大な塊が浜に打ち上げられた。樹木は根こそぎ倒され、岩肌が激しく削られた。
自治会長の木村民茂さん(64)は「2度も津波で全滅に近い被害を受けており、姉吉の危機意識は強い」と説明する。住民らは昭和三陸津波から50年目に漁港に観音像も建立。毎年6月に供養の法会を営み、惨禍と教訓を継承してきたという。
木村さんの気掛かりは現在の行方不明の親子4人だ。隣の地区の学校に子どもを迎えに行ったまま安否が分からない。
「家は無事でも人が犠牲になっては…」と無念そうな木村さん。「人は自然に勝てない。これからも津波の恐ろしさを伝え続けないといけない」と話している。(東野滋)
姉吉地区に立つ「大津浪記念碑」の全文は次の通り
大津浪記念碑
高き住居は児孫の和楽/
想(おも)へ惨禍の大津浪/
此処(ここ)より下に家を建てるな/
明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て/
部落は全滅し、生存者僅(わず)かに前に二人後に四人のみ/
幾歳(いくとし)経るとも要心あれ