「明治三陸」で被害 高台に集団移住 【大船渡・吉浜湾】
<4月10日・河北新報>
■吉浜では海辺の低地に家を建てないことが常識。親から言い伝えられて守った教訓というよりも常識だったという。大船渡市の吉浜湾では、中心となる集落の家屋約100世帯は海抜20~30メートル前後の県道沿いに移住が完了していたため、津波は集落深くには達せず、戦後に低地に建った民宿など2軒が流され、海辺で作業をしていた男性1人が行方不明になったが、死者ゼロ、被災家屋は上記2軒を含め10軒だけだった。
■上記紙面画像は不鮮明なのでテキストを掲載します。
「明治三陸」で被害 高台に集団移住
11日で発生から一ヶ月を迎える東日本大震災。東北の沿岸部を襲った津波は多くの家、人々をのみ込んだ。「人知を超えた災害」とも言われる一方で、先人は津波への警鐘を残している。歴史から何をくみ取り、教訓をどう継承するのか。再び同じ被害を繰り返さないためにも、過去の津波被災地を歩き、学ぶ。
大船渡市の吉浜湾は、ほかの三陸海岸の湾とは風景が異なる。中心集落があるはずの湾奥部の低地には家屋がなく、水田が広がる。中心となる集落の家屋約100世帯は海抜20~30メートル前後の県道沿いに並ぶ。
「吉浜では海辺の低地に家を建てないことが常識。親から言い伝えられて守った教訓というよりも常識なんだ」
消防団員の新沼公晴さん(47)は県道に立ち、双眼鏡で潮位を観測しながら何度も強調した。
今回の震災で、吉浜湾には10メートル前後の津波が襲来。戦後に低地に建った民宿など2軒が流され、海辺で作業
をしていた男性1人が行方不明になった。ただ、津波は集落深くには達せず、県道で止まった。
100年以上前、吉浜湾でも湾奥部の低地に中心集落があったが、1896年の明治三陸大津波で壊滅。死者、行方不明者は200人を超えた。当時の村長は高台へ家を再建するよう指示した。
津波が到達しなかった地点には、村の下方を意味する「下通り(しもどおり)」という道が造られた。それが今に残る県道だ。
家を再建する場所は下通りを目安とし、その周辺とされた。多くの住民が高台に移住したが、低地に住み続ける住民も少なくなかった。
村を襲った1933年の昭和三陸津波で、下通り周辺の住民は助かったが、低地の住民が被害に遭い、17人の死者、 行方不明者を出した。
当時の吉浜村の柏崎丑太郎(うしたろう)村長は私財に加え、銀行から調達した資金で下通り周辺の土地を購入。村 が移住先を用意すると、数年間で高台への集団移住が完了した。
柏崎村長の孫のナカさん(97)は今でも、祖父の話を覚えている。
「おじいさんは『ただ呼び掛けるだけでは移住しない住民が必ずいて、また同じことが起きる。村が強引にでも移住 させる方法を考えた』と、昔話を聞かせてくれた」
道沿いには高さ2.5メートルの巨大な石碑が立ち、明治三陸大津波の犠牲者の全氏名が彫られている。津波の恐ろ しさが住民の心に刻まれ続け、ほとんどの住民は今でも下通り周辺の高台に住む。
「おじいさんも苦労が少しは報われたと思っているはず」。ナカさんはそう語った。 (中村洋介、山口達也)