普代守った巨大水門 被害を最小限に
<4月24日・岩手日報>
■高さ15・5メートルの普代水門と太田名部防潮堤が普代村の津波被害を最小限に食い止めた。
東北有数の高さ15・5メートルの普代水門(総延長205メートル)と太田名部防潮堤(総延長155メートル)が普代村の津波被害を最小限に食い止めた。過去2度の大津波で多数の死者を出したことを教訓に、当時の村長らの強い要請で整備された巨大な堤防が大津波から集落と村民の命を守った。
「2度あることは3度あってはならない」。1947年から10期40年間村長を務めた和村幸得さん(故人)には1896(明治29)年、1933(昭和8)年の三陸大津波で多数の犠牲者を出した経験を繰り返すまいという強い信念があった。
明治の大津波級の津波から村を守るため、当時一般的だった高さ10メートル前後ではなく、東北一とも言われる15メートル級の高さにこだわった。「そんなに高い堤防が必要なのか」という批判的な声も一部あったというが、和村村長らの切実な訴えが実り、普代水門は県営事業として12年間、総工費35億6千万円をかけ84年に完成した。
村によると、今回の津波は高さ約20メートル。水門を越えたが、そこから上流約300メートルで止まり、付近にある普代小、普代中のほか村中心部も被害を免れた。
村中心部から数キロ離れた太田名部地区の防潮堤は総工費約6千万円をかけ67年に完成。大津波から約100世帯の集落を守った。同地区に住む太田喜一郎さん(82)は「普代が守られたのは堤防と水門のおかげ」と話す。
村によると、村内では明治三陸大津波で302人、昭和三陸大津波で137人の犠牲者を出した。今回、漁業施設は甚大な被害を受けたが、被災した民家はなく、死者ゼロ。海岸に出掛けたとみられる1人が行方不明になっている。
和村村長は退任時のあいさつで村職員にこう呼び掛けたという。「村民のため確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる」