「浪分神社」の伝承途絶える 【仙台・霞目(かすみのめ)】
                    <4月10日・河北新報>

■津波の浸水域との境目に建てられたと伝わる仙台市若林区霞目の浪分神社の伝説は月日の経過とともに忘れ去られ、浪分神社の海側には大きな集落となった荒浜地区等多くの住居が並んでしまった。東日本大震災の大津波は仙台平野の沿岸でも高さ10メートル近くに達し、これら沿岸部の居住地帯は壊滅。死者・行方不明者数が700人近くに上る大きな被害となった。

浪分神社についての河北新報社紙面

 

■記事のテキスト

「浪分神社」の伝承途絶える

仙台市若林区・浪分神社周辺の浸水状況図

 仙台市若林区霞目の浪分神社は、津波の浸水域との境目に建てられたと伝わる。伝説は月日の経過とともに忘れ去られ、教訓として生かされることはなかった。

 海岸に近い若林区荒浜北丁の佐藤利幸さん(73)は津波で自宅を失った。佐藤さんは「神社の存在は知っていたが、津波が襲ったという話は聞いたことがなかった」と語る。荒浜地区に数百年前から先祖代々住んできた大学源七郎さん(69)も「津波の話は言い伝えられていない」と言う。

 神社は海岸から直線で約5.5キロ、海抜約5メートルに位置する。複数の歴史書などによると、建立は1702年とされ、慶長三陸津波(1611年)では、この周辺で津波が二手に分かれて引いていったと伝わる。津波は1835年にも地域を襲ったという。

 今回の東日本大震災の津波は、仙台東部道路にせき止められる格好で、神社の手前約2キロで止まった。
 神社近くに住む小島三郎さん(87)は「道路がなければ神社まで届いたかもしれない。でも、自分も『神社より海側に住むな』との話は聞いたことがない」と話す。
 一部の研究者から津波の危険性を指摘する声もあったが、注目されることはなかった。

 宮城野区蒲生の歴史研究家飯沼勇義さん(80)は「市内には津波を伝える歴史物が多く存在する。津波はここまで来ないとの思い込みが、言い伝えを途絶えさせたのかもしれない」と語る。(勅使河原奨治)


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大津波への対応