■河北新報社は、東日本大震災から1年1ヶ月目に当たる2012年4月11日、毎月11日の朝刊に特集記事「防災と減災のページ」の連載を開始した。そのページの中には津波に遭遇し九死に一生を得た被災者の証言記事が含まれている。
 ここには、2012年5月11日朝刊に掲載された閖上での津波体験談を紹介する。


地元を熟知、とっさに裏道  <2012年5月11日・河北新報>

■閖上の自宅に車で戻る途中に周辺の大渋滞を知ったことで、自宅から家族を乗せての車での避難は、高台の東部道路を目標に地元の人しか知らない抜け道を使ったため、ぎりぎりで津波を回避することができたという。少しでも早く高台に行かないと危ないという危機意識の高さと判断力の良さが命を救った実体験である。

閖上の自宅から渋滞を避けて東部道路へ脱出したときのマップ

 

閖上の自宅から車で東部道路に脱出できたという河北新報社の記事

避難道 生死分けた選択

 東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた名取市閖上地区。周辺の主要道路は地震後、避難する人の車で渋滞した。近くに高台はない。当時、閖上に住んでいたアルバイト三浦修さん(65)=名取市増田=は、仙台東部道路への避難を決断、とっさに裏道を選んで東を走らせて渋滞をくぐリ抜けた。車ごと流された犠牲者も多い。避難道の選択が生死を分けた。 

 

地元を熟知、とっさに裏道

 地震が発生した時、妻と名取市のショッピングセンターにいました。 自宅が心配で、車で自宅に戻ったのが午後3時半ごろ。家自体は大丈夫でしたが、 中は足の踏み場もありませんでした。

 自宅に帰る途中、南北に走る県道塩釜亘理線は既に混んでいました。 この道路は、閑上中の前を通る市道と市役所方面に向かう県道閑上港線の2本と閖上 大橋のたもとで交わり、5差路をつくっています。その交差点周辺がものすごく渋滞 していました。
 閑上大橋で事故があったのに加え、信号が壊れたからだと聞いています。自宅は5差路から 南西へ700mほどです。

 地域の避難場所は閑上小でした。でも、そこに避難しようとは思わなかった。 道路は渋滞だったし、いつ津波が来るかも分かりません。高い場所、高い場所…と考え、 東部道路に逃げようと決めたんです。

 名取インターチェンジ(IC)までI㌔弱。隣近所にも「東部道路に逃げよう」と 声を掛けました。でも、渋滞していたので多くの人は「歩いて避難する」と言っていました。
 妻と息子を車に乗せて家を出ました。自宅前の県道塩釜亘理線は混んでいましたが、 車列の隙間を抜け、細い裏道に入ったんです。地元の人しか分からないような田んぽ道。 難なく名取ICに着くことができました。

 生まれ育った土地だから、抜け道を知っていた。情報を持っているか、いないか。 それが分かれに目になると痛感しました。

 ところが、東部道路は通行止めで、バーが降りていて入れない。通行止めだったためか、 車はあまりいませんでした。前にいたトラックの運転手が、職員にすごいけんまくで 怒嗚っていました。「何やってるんだ!さっさと開けろ」って。迫力に押されてか、 職員がバーを開けたんですよ。それで東部道路に入れた。

 ぎりぎりでした。すぐ津波が来ましたから。東部道路を通行止めにせず、避難場所として 開放すれば、もっと助かった命があったでしょう。

 夜は東部道路で、閑上の火災をぽうぜんと見ながら、車で一晩過ごしました。翌日戻ると、 自宅は津波をかふった上に焼け落ちていました。 


■記事画像の写真説明:名取市の閑上大橋たもとの5差路付近。津波か襲い、渋滞の車などが押し流された。奥の閑上小屋上には、避難した住民の姿が見える=2011年3月12日


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