ふじ幼稚園の周辺マップ(広域図1/21000 及び詳細地図1/3000)
51人の園児が乗った幼稚園バスが津波にのまれた悲劇は、3月18日、河北新報社がまず報じた
幼稚園バス濁流に 園児ら5人死亡4人不明 <3月18日 河北新報>
宮城県山元町の私立ふじ幼稚園の園児51人が、幼稚園の送迎バスごと津波に巻き込まれた。園児43人は救出されたものの、4人が死亡し、4人が行方不明。職員1人も亡くなった。
幼稚園によると、11日の地震直後、建物の中は危ないと、付き添いの職員とともに園児らは大小2台のバスに分乗。園庭に避難していたところを、津波が襲った。
園児33人が乗った大型バスは園内のブロック塀に引っ掛かって止まり、18人がいた小型バスは園から数百メートル離れた民家まで流された。
濁流にのまれた車内は、天井近くまで水位が上がったという。職員はドアを開け、バスの屋根に園児らを引き上げた。
大型バスにいた職員の一人は「バスの中で、浮いている子を外に出すので精いっぱい。それでも、手で水中を探り、感触のあった2人をリュックや服をつかんで外に出した」と振り返る。
波が引いたのを見て、それぞれのバスから、園舎や民家の2階に逃れた。だが、大型バスでは園児7人が不明となり、17日までに3人が遺体で発見された。4人はまだ見つかっていない。小型バスでは園児1人と、職員中曽順子さん(49)が絶命した。
「先生たちは懸命に救助に当たったが、全員は助けられなかった」。大切な園児と職員を奪われた鈴木信子園長(52)。「親御さんに大変申し訳ない」と肩を震わせた。
4月24日、毎日新報社は亡くなった3人の卒園式の模様を報じた
津波で幼稚園児8人死亡 3人に卒園証書 <4月24日 毎日新聞>
東日本大震災の津波で通園バスが流され、園児8人と職員1人が死亡した宮城県山元町の私立ふじ幼稚園(園児181人、昨年5月1日現在)で23日、卒園式があった。出席した保護者によると、死亡した8人のうち3人が卒園予定で、遺影を手にした遺族らが卒園証書を受け取った。
式は北隣の亘理(わたり)町内で行われた。冒頭、全員で黙とうをささげ、鈴木信子園長が「助かったみんなは命を大切にしてください」と話したという。続いて亡くなった園児を含む69人の卒園生の名前が読み上げられ、一人一人に卒園証書が手渡された。亡くなった園児の名前が呼ばれると、遺族や職員が遺影を持って壇上に上がり、会場に父母たちのすすり泣きが漏れたという。
亡くなった木村萌依(めい)ちゃん(6)の父康文さん(35)は、遺影を胸に夫婦で出席し、娘に代わって卒園証書を受け取った。康文さんは「娘がいない卒園式には来たくはなかった。でも娘が楽しみにしていたので、娘の代わりと思って」出席することにしたという。それでも式後、「楽しみにしていたランドセルを背負わせてやれなかったのがつらい。泣いた顔、怒った顔、笑った顔、いろんな表情を思い出します。すべてが宝です」と沈痛な表情を浮かべた。証書は仏壇に供えて萌依ちゃんに報告するという。
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幼稚園による保護者への説明などによると、当時、2台のバスで園児を順次、送迎中で、園には51人の子どもが残っていた。
バスが園に帰着し、引き続き小型バスに18人、大型バスに33人を乗せた後に津波が到達。小型バスは約150メートル離れた民家まで流されて止まった。職員が園児をバスの屋根に上げて民家2階へ避難させたが、1人が死亡した。職員1人も園児を助けた後に亡くなった。
大型バスは園庭の門で止まった。職員が園児をバスの屋根に上げ、更に園舎2階に避難させたが、7人が津波にのまれた。
河北新報社は大震災証言特集記事「その時 何が」で、5月25日、宮城県・山元町のふじ幼稚園のバスが津波にのまれ、9人が犠牲になった悲劇の詳細を報じた
幼稚園バスのんだ濁流(宮城・山元) <5月25日 河北新報>
園児持ち上げ屋根へ/警戒足りず9人犠牲
宮城県山元町の私立ふじ幼稚園で、園児51人を乗せ、園庭に止まっていた幼稚園バス2台が津波に襲われた。43人が助け出されたが、園児8人と職員1人が死亡した。鳴らない防災無線、津波への警戒心の薄さ…。濁流がなだれ込んだバスの車内では、懸命の脱出劇が繰り広げられた。
園によると、3月11日午後3時ごろ、職員らが園児51人を園庭に避難させた。木造2階の園舎は余震で危険と判断した。同15分すぎに雨が降り出し、園児を大型、小型のバス2台に乗せた。 津波は、そこに突然、押し寄せた。
園児33人が乗った大型バスは津波に流され、正門の塀にぶつかって止まった。園児18人が乗る小型バスは100メートルほど離れた民家まで流された。
大型バスには職員5人がいた。濁流は天井近くまでに達し、園児はぷかぷかと浮き沈みし、パニック状態に陥った。
職員によると、濁流との格闘は壮絶を極めた。
ドアを開け、職員1人が屋根に上った。他の職員が車内から園児を持ち上げ、23人を屋根に脱出させた。園児1人が流され、職員が泳いで抱きかかえて救出、のぼり棒につかまり水が引くのを待った。別の職員は「車内に取り残された子がいないか確認した。もういないよね、いないでね…。祈るような気持ちで水中を探ったら、2人のリュックに手が掛かった」と言う。2人を引っ張り出し、がれきにしがみついた。
屋根に上った職員は「子どもたちを助けなきゃと必死に引き上げた」と涙で振り返る。救出及ばず、7人が行方不明になった。
職員2人が乗った小型バス。水を飲み衰弱した園児1人と救出で力尽きた職員中曽順子さん(49)が死亡した。
大型バスの園児は園舎2階で、小型バスの園児は民家2階で、それぞれ夜を明かす。
「娘が戻らない」。11日午後8時すぎ、団体職員橋元洋平さん(33)は長女結衣ちゃん(5)を捜し、園を目指した。周囲は真っ暗。携帯電話の明かりだけが頼り。がれきを越え、腰まで水に漬かって午後9時ごろ、園舎にたどり着いた。「結衣はいますか」。橋元さんは尋ねた。「いません」。職員が首を振る。橋元さんはもう一台の小型バスのことを聞き、望みをつないだ。
民家にたどり着き、再び尋ねた。「結衣はいますか」「すみません。いません」。返答に橋元さんは泣き崩れた。震えが止まらなかった。
民家2階には亡くなった園児1人と、重体の園児2人を寝かせた部屋があった。橋元さんはいてついた部屋で2人を温めて看病した。「この子が結衣だったら…」。他人の娘を、わが娘のようにいとおしく感じた。
結衣ちゃんは数日後、遺体で見つかった。
今月14日、園児8人の遺族への2回目の報告会が町内で開かれた。
「なぜうちの娘を助けてくれなかったのか」。一人娘ひな乃ちゃん(5)を亡くした高橋光晴さん(43)は4月の報告会で、園側に怒りをぶつけた。今は違う思いも抱く。
「先生方だって必死だったはず。情報を収集して津波から避難ができていれば、誰もが悲しい思いをせずに済んだ。それを教訓にしてほしい」
園によると、近くの町の防災無線は警報が鳴らず、避難を呼び掛ける広報車も来なかったという。職員の1人がラジオで大津波警報を知ったが、全員に伝わらなかった。
海岸から幼稚園までは約1.5キロ。園は地震や火災の避難訓練は年3、4回行っていたが、津波の避難訓練は一度もしたことがなかったという。
鈴木信子園長(52)は涙を流し、悔やむ。
「津波への警戒心が足りなかった。それが最大の過ち。あの子たちのことを一生背負って生きていく」