証言の目撃地点マップは以下のとおり

大津波の証言/七ヶ浜のマップ


 七ヶ浜町内での死者数は68人、行方不明者5名(11月14日現在)という被害となった。七ヶ浜町の被害は菖蒲田浜、花渕浜、吉田浜など太平洋に面した地区の住宅が壊滅的な状況である。
 河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
 七ヶ浜町内の津波証言記事は9月16日版、河北新報社“私が見た大津波”に掲載された七ヶ浜公民館分館へ避難して津波に遭った体験談だった。→map

<1>目の前まで海、家々が水没・公民館分館 <9月16日 河北新報>

 目の前まで海迫り、家々が水没

 町議会定例会の最中に地震に遭いました。帰宅後、標高10メートルほどの場所に建つ公民館分館に向かいました。

 既に住民20~30人が集まっていました。友人と2階で古い石油ストーブの点火を試みていたときです。ゴォーッという音と、「あー」という声が聞こえました。

 何事か分からずにいると、階下から「誰かいないかー」という声がします。様子を見に行くと階段の途中まで水が来ていて、男性がずぶぬれになりながら、お年寄りを押し上げていました。

 2階から外を見ると海が目の前に迫り、たくさんの家が水没していました。2階にいたお年寄りは一時パニック状態でしたが、水が引いた約1時間後、テーブルを担架代わりにして外に運びました。1階では何人か亡くなっていました。

 その後、招又(まねきまた)の自宅に向かいました。高台に位置し、慶長津波(1611年)で避難した人たちが「こっちさ来い」と手招きしたことから、地名が付いたと伝えられています。

 周辺の道は水やがれきに閉ざされ、皆がぼうぜんと立ちつくしていました。孤立した住民約160人は、近隣の家などに避難し、励まし合って一夜を過ごしました。

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 河北新報社の“私が見た大津波”の10月2日掲載版。七ヶ浜町松ヶ浜の自宅にいて津波襲来直前に裏山に駆け上がって助かった高校2年生の体験談→map

<2>コンテナ、次々流されてきた・松ヶ浜  <10月2日 河北新報>

 仙台港からコンテナ、次々流されてきた

 震災が起きた時間は、自宅にいました。揺れは立っていられないほど大きく、家の棚は落ち、テレビも倒れました。すぐに避難の準備はしましたが、その時点では、大きな津波が来るとは思っていませんでした。

 消防車が走ってきて「逃げてください」と連呼した後でした。突然、滝のようなごう音が聞こえました。急いで2階に上がり、海を見ると、黒い津波が200メートルほど先の堤防を乗り越え、既に多くの家屋をのみ込んでいました。

 避難しようと1階に降りました。津波は庭に迫っていたので、急いで裏山に駆け上がりました。家の近くの集会所や消防団の倉庫が波に流され、集落はあっという間に破壊されてしまいました。

 その後、仙台港の方向からコンテナが次々と流されてきました。遠くの海では、壁のように白い水しぶきが上がり、次の津波が近づいているようでした。

 自宅は津波の大きな被害を受けなかったので、水が引いた後に戻りました。その日の夜、爆発音を聞いて外に出て様子を見てみると、コンビナートの方角の空が真っ赤に染まり、焦げた臭いが漂っていました。大規模火災は3日間続きました。
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