証言の目撃地点マップは以下のとおり
河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
河北新報社は4月17日、津波が来ることを確信して最初は車で、途中から車を断念し走って高台の市民会館へ着き恐ろしい大津波を目撃したという証言を掲載した→map
<1>川の水、ざーっと引いた・市民会館 <4月17日 河北新報>
川の水、ざーっと滝のように引いた
高台にある市民会館の近くから、大島の方向を見た様子です。着いた直後に津波が押し寄せ、家々がバリバリと音を立てて崩れていきました。
地震のときは海沿いの宮城県気仙沼合同庁舎に居ました。長く大きな揺れから津波が来ると直感。すぐに車で近くの自宅に戻り、母が義兄と一緒に避難したのを確認すると高台を目指しました。
ざーっと滝のように川の水が海の方へ引いていくのが見え、津波はかなり大きいと確信しました。途中で道路が渋滞し、車での避難を断念。走って高台に向かいました。
津波は真っ黒で、すごい勢いで住宅をのみ込んでいきました。気仙沼湾は大きくうねり、漁船がゆらゆらと漂っていました。油槽が流れだし、油の臭いがひどかった。
目の前では逃げ遅れた人が屋根の上で手を振って助けを求め、対岸では火災が起きていました。ガスボンベが爆発するような音も聞こえました。
ビルや住宅の上階に逃げた人もいたようですが、高い津波に襲われると孤立してしまう。やはり高台を目指して避難するべきだと思いました。 →map
河北新報社の“私が見た大津波”の4月27日掲載版。波路上漁港で地震に遭い、高台の自宅近くの崖の上まで来て恐ろしい海面の変化を目の当たりにした目撃談である→map
<2>雨雲のような色の波・波路上漁港の高台<4月27日 河北新報>
土砂降りの雨雲のような色の波、襲いかかる
近所の波路上漁港で友達と釣りをしていたら地震が来ました。揺れが大きかったので、大津波警報が出る前に自転車で家に戻りました。家は高台にあり、隣の自治会館が避難所になっているので、家まで来れば大丈夫だと思っていました。
近くの崖の上から海を見ていると、海面がいったんすーっと引きました。津波は正面の海から来ると思っていたら、思いも寄らない方向から襲って来ました。横からどんどん流れてくるような感じでした。
遠くにあった家や船が目の前に運ばれてきて、何が起きているのかすぐには分かりませんでした。波の色は土砂降りの雨の雲のような暗い色でした。音もしたような気がするけれど、よく覚えていません。
あまりにもすごい勢いで押し寄せてくるので、だんだんと「自分も津波に巻き込まれて死ぬんじゃないか」と怖くなりました。海から1キロ以上離れた階上中まで歩いて避難しました。
家族にはその日のうちに会えました。家に戻ったのは4日後でしたが、無事だったのでほっとしました。。→map
河北新報社は5月7日の朝刊20面のほぼ一面を使用して、“川から津波が 海見えぬ山あいの集落まで爪痕”との見出しで、津波が河川をすさまじい勢いでさかのぼり海が見えない山あいの集落を襲ったという3地点の証言記事を掲載した。そのうちの一つが気仙沼市本吉町津谷新明戸地区の証言記事である。
→map
<3>内陸4キロ油断突く・本吉町津谷新明戸地区<5月7日 河北新報>
川から 津波が
東日本大震災の大津波は、海が見えない場所にある山あいの集落をものみ込み、多くの命を奪った。海岸線から離れているにもかかわらず、濁流が来襲した地区を見ると、ある共通項が浮かび上がる。津波は、河川をすさまじい勢いでさかのぼっていた―。
内陸4キロ油断突く/海見えぬやまあいの集落まで爪痕
気仙沼市本吉町津谷で家電販売店を営む狩野昭夫さん(76)と妻カツ子さん(69)は、赤牛漁港近くの親類宅で地震に遭遇した。
◇声失う光景◇
「津波が来る。避難しないと」。2人は車でJR本吉駅近くの自宅に向かった。親類宅から約3キロ西にあり、海からは距離があるので安全だと考えたという。
家に戻って倒れた物などを片付け始めたとき。「ゴー」という地鳴りのような音がした。カツ子さんが外の様子を確認しようと玄関を開けると、水が押し寄せてきた。ひざまで達した水に、流されそうになったカツ子さん。昭夫さんが服を引っ張って助けた。2階に逃げ込んだ2人は、周囲の光景に声を失う。
どろどろとした黒い水が辺り一帯を覆い、近所の十数戸はなくなっていた。自宅1階が水没するのを見てカツ子さんは「次はうちが流される」と観念したという。家は持ちこたえたが、水が引くまでの約30分間は生きた心地がしなかった。
◇警戒心薄く◇
狩野さん宅がある津谷新明戸地区から海は全く見えない。小高い山も点在し、景観は内陸部のようだ。住民の津波への警戒心は薄かった。
油断を突くように、津波はとてつもない破壊力を保ちながら、津谷川をさかのぼってきた。気仙沼市本吉総合支所によると、新明戸地区周辺で7人が死亡、1人が行方不明となっている。
津波は津谷川の支流の馬籠川にも入り込んだ。平行する国道346号をのみ込みながら山間部を進み、最終的に河口から4キロ以上さかのぼったとみられる。
◇国道に濁流◇
気仙沼市の会社員山内大輔さん(30)は国道346号を車で走行中、馬籠川を伝ってきた濁流にさらわれた。国道を押し寄せてくる水とがれきが目に入り、急停止したがなすすべがなかった。
山内さんは割れた窓ガラスから車外に脱出し、九死に一生を得た。付近ではワゴン車が流され、5人が亡くなっている。
山あいにまで爪痕を残した大津波。地元の人たちは口をそろえる。「こんな内陸まで津波が来るなんて考えもしなかった」
(河北新報/末永智弘)
→map
河北新報社の“私が見た大津波”の5月11日掲載版。海抜約50mの自宅から想像を絶する姿で押し寄せてくる津波の様子を目撃した証言である →map
<4>横並びの青黒いライオン・唐桑町 <5月11日 河北新報>
横並びの青黒いライオン、島々を襲う
自宅は海抜50メートルほどの崖の上にあります。窓から見える穏やかな海と唐島が好きでした。
地震の時は家にいました。大きな揺れに驚き、屋外に逃げ出しましたが、足がもつれて思うように動くことができず、木の枝や草をつかんでやっとのことで家の裏山に登りました。
寒さに震えながら、山から海を見ていました。揺れが収まってから30分ほどすると、20メートルはあろうかという巨大な津波が沖から迫って来るのが見えました。
まるで何頭も横並びになった青黒いライオンが、たてがみをなびかせて全速力で駆けて来るようでした。唐島に近づくにつれて海面が盛り上がり、小さな島はすっかりのまれました。津波は勢いを失うことなく、そのまま大島の街にも容赦なく襲い掛かりました。
その後、引き波と沖から新たに迫ってきた波が激しくぶつかり、海面は泡で真っ白になりました。泡が消えると、引き波が巻き込んできた家の屋根や船、がれきが海を埋め尽くし、ゆっくりと沖の方に流れていきました。
どんな音だったかは覚えていません。ただ、ぼうぜんと津波を眺めていました。→map
河北新報社は5月15日、ドキュメント大震災『その時 何が』の特集で、気仙沼市内で火災の危険にさらされた3市民の証言を中心に気仙沼の大規模火災を被災者の視点でまとめた→map
<5>炎に包まれる街(気仙沼・鹿折地区) <5月15日 河北新報>
火の手 海と陸から
炎に包まれる街
気仙沼市では3月11日夜、住宅地などで大規模な火災が発生した。住民によると、火は海上に流れ出した油に引火し、広がったという。市内のあちこちで火の手が上がった。焦げた臭いに包まれ、視界を遮るほどの煙が幾筋も立った。
◇油流出 闇の中消火◇
「鹿折(ししおり)全体が燃えている…」。気仙沼消防署の当直司令、戸羽一明さん(47)は息をのんだ。
3月11日午後8時ごろ、国道45号から気仙沼湾に至る鹿折地区は炎に包まれていた。一帯には住宅や水産加工場が立ち並ぶ。
地区の多くが浸水したため、JR大船渡線の鹿折唐桑駅近くの高台に拠点を構えた。消火活動はこれまでと全く勝手が違ったという。
停電で、辺りは真っ暗。一面のがれきが行く手を阻んだ。最寄りの消火栓もがれきに埋もれ、やむなく数百メートル離れた消火栓からホースを伸ばした。
頻発する余震と、津波にも神経をとがらせた。二次被災を避けるため、「潮位上昇」の連絡が入るたびに、部下を退避させた。作業は途切れがちで、火の勢いはなかなか収まらなかった。
「延焼を止めながら、隊員の命も守る。難しい作業だった」。
◇ ◆ ◇
火の手は陸だけでなく、海からも上がっていた。
「海と陸から炎に挟まれた」。食品加工会社の工場長を務める吉田敬さん(58)は11日夜、気仙沼湾に面した工場3階にいた。
地震後に従業員26人と一緒に避難。住民を含め約300人が津波から逃れて身を寄せていた。
内湾の黒い海に無数の火が浮き、文字通り「火の海」だった。花火のような爆発が起き、洋上の大型船から火柱が上がった。内湾沿い集落も燃えていた。炎は波に揺られながら少しずつ工場に近づいてきた。
寒さと恐怖で一睡もできなかった。風向きが変わったのは12日未明。湾内の炎はわずかのところで工場に届かなかった。
12日の昼、幾筋も煙が立ち上がる市街地を抜けて高台に避難した。工場のそばには、約3キロ先の岸壁にあったはずの石油タンクが打ち上げられていた。「タンクは油が抜けて空っぽだった」と吉田さんは振り返る。
◇ ◆ ◇
市は後日、港のタンク22基が津波に流され、200リットル入りのドラム缶5万7600本分の油が流出したことが、火災の一因だと発表した。
地域の一角にある住宅地・西みなと町で、火の手が上がる瞬間を見た住民がいる。高台に避難した自治会長の熊谷民夫さん(62)だ。
津波直後の11日午後4時ごろ、数カ所のがれきから火が出たという。「何であそこがあんなに激しく燃えるのか、と思うような場所だった。後で見たら、津波で流された車6~7台が、住居とともに焼け焦げていた」と話す。
気仙沼市の多くの住民は言う。「水をかぶった街で火災が起きるなんて…」。一方で、焼け落ちた街には、焦げ臭さとともに油臭が漂った。倒壊した木材に交じり、燃料が入ったタンク、船、車、ガスボンベなどが点在していた。
市街地が鎮火したのは23日朝。震災発生から12日後だった。約10万平方メートルが全焼したとされる。大火の出火原因は、今も特定されていない。
(河北新報/高橋鉄男、丹野綾子、狭間優作)
→map
自然が豊かで名所も多く観光の島として知られる気仙沼市大島には津波に関する伝説があった。「大津波が来たら、島は三つに分断される」。この伝説がほぼその通りだったほどの大津波であったことを島民の証言をもとに5月28日の朝刊で河北新報社が報じた。
さらに別紙面に、湾内に広がった重油が付着し火のついた瓦礫が接岸したことで大島の北部に燃え移り、火が島の最高峰亀山山頂まで駆け上がった惨状も伝えた。 →map
<6>危うく大島三分断、そして火災 <5月28日 河北新報>
この記事は当日の紙面をご覧いただく。画像をクリックすると拡大画像(PDF)を見ることができる。
一部3階建の公民館には約450人が避難した。2階天井付近まで達した津波での犠牲者は出さなかったものの完全に孤立した状態で周囲は猛火に包まれてしまう。厳しい寒さのうえ水や食料が枯渇した中で全員が救出されるまでを伝えている。 →map
<7>450人が孤立 気仙沼中央公民館 <6月20日 河北新報>
この記事は当日の紙面をご覧いただく。画像をクリックすると拡大画像(PDF)を見ることができる。
河北新報社の“私が見た大津波”の6月24日掲載版。気仙沼市内で地震に遭い、車で内陸方面へ移動中、高台の本吉駅を過ぎると前方にまさか津波が… →map
<8>家、車、木材、牛が次々… 本吉駅付近 <6月24日 河北新報>
家、車、木材、牛が次々と流されてきた
地震が起きたときは、気仙沼市内のショッピングセンターにいました。揺れが収まった後、同居する中学生の孫が心配で、車を走らせました。海岸に平行する道路は渋滞し、前方の海辺の街は既に水に漬かっていました。
内陸の登米市方向に進路を変えました。高台にある本吉駅を通り過ぎて坂を下りると、トラックの運転手に、引き返すように促されました。来た道を戻って振り返ると、見下ろした先に、大量の茶色の水が押し寄せて来ました。
ゴーという地鳴りのような音とともに、家、車、木材、牛が次々と流されてきました。津波の色はだんだん濃くなり、最後は真っ黒でした。
海とは逆方向なのに、津波が来たことにも驚きました。少しタイミングが違ったら、自分も津波にのまれたかもしれないと思うと、急に怖くなり、腰が抜けました。
駅の隣のコミュニティーセンターで一夜を過ごし、翌日、車で山道を通って自宅を目指しました。不安でしたが、出会う人に励まされたり、助けられたりして、日没前に帰宅できました。
孫は私の生きがいです。避難所で再会できて、ほっとしました。→map
車椅子の高齢者を100名以上預かっていた介護老人保健施設「リバーサイド春圃(しゅんぽ)」では津波襲来までのわずかな時間の中でできる避難行動は2階に移動することしかできなかった。しかし津波は2階まで襲ってきたのだ。 →map
<9>極限状態 救うすべなく・老健 <7月22日 河北新報>
この記事は当日の紙面をご覧いただく。画像をクリックすると拡大画像(PDF)を見ることができる。
河北新報社の“私が見た大津波”の8月1日掲載版。校舎に残った教師は重要書類を4階に運び終わり外を見ると3階まで水没していた。海岸線を見るとさらに大きな波が、「あの津波が来たら、もう駄目だ」…
→map
<10>土煙を上げ走る群衆のよう・気仙沼向洋高 <8月1日 河北新報>
勤めている気仙沼向洋高は3月11日、授業が午前で終わり、地震が発生したときは部活動や追試験を受ける生徒がいるだけでした。長い揺れに続き、防災無線で津波警報が流れました。教職員は手分けして、生徒の点呼をとった後、高台に避難誘導しました。私は重要書類を校舎の4階に運びました。
作業を終えて、南校舎の屋上から海の方向を見ました。一瞬、大勢の人が土煙を上げながら走っているように見えましたが、目を凝らすと津波でした。
津波は住宅をのみ込んだ後、学校のグラウンドから入ってきました。「ゴーゴー」という音とともに、水位はどんどん上がり、校舎の3階の高さまで到達しました。写真のように、南校舎と北校舎の間の中庭にも濁流が渦巻き、北校舎も2階まで水に漬かりました。
辺りがすっかり水没した後、松林がなくなった海岸線に、今まで以上に大きな津波が見えました。黒く高い壁のようでした。「あの津波が来たら、もう駄目だ」と覚悟しました。
間もなく、大津波は引き波とぶつかりました。高く水しぶきが上がると、津波は勢いを失い、私は助かりました。
→map