石巻市釜谷地区の北上川河口から約4㌔の川沿いに位置する大川小学校は、3月11日の東日本大震災で全校児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明となった。
 あの日、あの時、学校と地域で何が起き、人々はどう行動したのか。その報道記事を追ってみた。
 一連の報道の中、河北新報社は震災からほぼ半年となる9月8日、大川小学校の惨状を証言をもとに克明に検証しており、これだけの犠牲者を出した要因にも触れている。
 下図に小学校のマップとともに、当時の津波浸水予想図(市のハザードマップ)を貼った。河北新報社は、釜谷地区はこれまでに津波が到達した記録がなく、住民は大川小学校がいざという時の避難所と認識していたこと、しかも、山と堤防に遮られていて津波の動向が把握できない環境だったこと等が避難を遅らせた要因として挙げた。これらを勘案すると、宮城県も石巻市も昭和三陸大津波レベルなら大川小学校には津波が来ないことを公言し、それ以上の大津波への対応は全く考慮していなかったと言わざるを得ない。もし大津波が来たらここは危険との意識が住民に無かったのはそのためだったと言える。大地震だったにもかかわらず、5分で完了可能な裏山への避難が選択肢の後方へ押し下げられてしまったのは、大川小学校に集まった人々のほとんどに危機意識が欠けていたためであり、そのように仕向けてしまった一因は行政にあったと推察できる。


大川小学校のマップ

大川小学校の周辺マップ

 下のマップは震災当時の津波浸水予想図だ。大川小は浸水しないことになっており、避難所に指定されていた。
マップをクリックすると拡大図(pdfファイル:233KB)が開きます。

画像をクリックすると拡大画像(PDF)が開きます

大川小の悲劇は3月20日、河北新報が報じた

大川小 <石巻>津波にのまれ94人不明   <3月20日 河北新報>

3月20日 河北新報の記事

 大津波にのみ込まれ、児童108人のうち84人、教職員は13人のうち10人が行方不明となった石巻市大川小。北上川の河口にほど近い学校で起こった現実を、どう伝えたらいいのだろうか。

 児童が下校準備をしているとき、地震が起きた。全員が校庭に避難した。児童の一部は迎えに来た親と帰宅したが、校庭に残った子どもたちが悲劇に見舞われた。

 「ゴーという音と一緒に、川から津波が襲ってきた。みんなで校庭の脇の山に登ろうとしたけど、間に合わなかった」。5年生の只野哲也君(11)も濁流に飲み込まれ、気が付くと山に中に体が半分埋まっていた。そばにいた友達に助け出され、九死に一生を得た。
 が、校庭で一緒にいたはずの2年生の妹は行方不明。祖父の安否は分らず、母は遺体で見つかった。父と祖母とは避難所でようやく再会できた。

 只野君の母は震災当日が誕生日だった。夜には家族みんなで盛大に誕生会を開くはずだった。「妹は誕生会の進行を考えていて、とても楽しみにしていたのに…」

 捜索が進む現場では、毎日のように子どもたちの遺体が見つかっている。むごたらしい現実を目の当たりにしてもなお、只野君は「みんな生きていてくれると信じたい」と「僕もくじけていられない」と自らを奮い立たせる。

 只野君の祖母アキ子さん(64)が、涙声で思いの丈を振り絞った。「私が死んだ方がましだった。哲也には、被害に遭った子どもたちの分もしっかり生きてほしい」


朝日新聞も3月25日、悲劇の現実を伝えた

安全だったはずの小学校 思い出の品、
             今も捜す校長 <3月25日 朝日新聞>

 北上川沿いに立っていた宮城県石巻市立大川小学校。津波は川をさかのぼり、子どもたちをのみ込んだ。「あの日」から、2週間。多くの児童と教員を失った校長は、子どもの姿を求めて避難所を回り、全壊した校舎を訪れては、思い出の品を今も捜している。

 児童108人のうち、無事が確認されたのは31人。21人は遺体で見つかり、56人は安否が分かっていない。学校にいた教職員11人のうち、助かったのは男性教諭1人だけだった。柏葉照幸校長(57)は午後から年休で不在だった。

 地震のあと、子どもたちは通学用のヘルメットをかぶり、校庭に整列していた。「点呼をしていた。避難しようとしてたんじゃないか」。地震の後、2人の孫を同校まで迎えに行った男性は言う。避難所にも指定されている小学校は、安全な場所のはずだった。

 そこへ津波が来た。北上川を河口から5キロもさかのぼり、小学校の屋根を越えた。

 学校への道は通れなくなり、親たちは何が起きたか分からなかった。

 「孤立しているけれど、大丈夫だと聞いていた」。佐藤すえ子さん(37)は、長女の未空(みく)さん(6年)、長男の択海(たくみ)君(3年)が翌日には戻ると思っていた。「寒い中、一緒にいてあげられないなんて」。停電の闇の中、眠れないまま朝を迎えた。

 だが翌日、子どもたちの遺体が見つかり始めた。22日までに、山の方で未空さんが、校内で択海君も見つかった。小学校のさらに上流でも家は水没し、近くの郵便局も駐在所もすべてが流されていた。

 18日には卒業式が開かれる予定だった。震災の前に未空さんの中学の制服が届き、「似合うかな」と話していた。結局、袖を通さないまま、服だけが津波を免れた高台の家に残った。

 「地震が起きたのが土曜か日曜だったら。津波がくるのがもう1時間遅かったら……。みんな家に帰っていたのにと思うと悔やみきれない」


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なぜ学校でこれほど多くの児童が犠牲になったのか―3月30日、河北新報は疑問を投げかけた

『なぜ多くの犠牲』保護者ら膨らむ疑問   <3月30日 河北新報>

3月30日 河北新報の記事紙面

 津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。

 大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。

 3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。

 捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、1人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」

 3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人ひとりに説明すべきだ」と憤る。

 「今ごろは卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。

 6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもの死を無駄にしてほしくない」と語気を強めた。


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読売Onlineは4月9日、大川小学校に関する被災の詳細を報じた

石巻・大川小の悲劇、被災時の詳細明らかに  <4月9日 読売新聞>

 東日本大震災で全校児童108人のうち7割が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小で、 被災時の状況が目撃者の証言などから明らかになった。
 児童は集団で高台へ避難する途中、すぐそばを流れる北上川からあふれた津波にのみ込まれた。 当時の様子が知りたいという保護者の要望に応えて学校側は9日夜、説明の場を設ける。

 ◇河口から4キロ◇

 大川小は東北最大の大河、北上川右岸の釜谷地区にあり、太平洋に北上川が注ぐ追波湾の河口から4キロ上流に位置する。同県教委によると大川小の児童は56人が死亡、18人が行方不明。また教諭については当時、校内にいた11人のうち9人が死亡、1人が行方不明になった。校長は震災当時、外出して不在だった。

 保護者や住民らの証言では、児童は11日午後2時46分の地震直後、教諭らの誘導で校舎から校庭へ移動した。ヘルメット姿や上履きのままの子もいた。保護者の迎えの車が5、6台来ており、「早く帰りたい」と、泣きながら母親にしがみつく子もいた。

 同49分、大津波警報が出た。教諭らは校庭で対応を検討。校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。学校南側の裏山は急斜面で足場が悪い。そうした状況から、約200メートル西側にある新北上大橋のたもとを目指すことになった。そこは周囲の堤防より小高くなっていた。市の防災マニュアルは、津波対策を「高台に上る」とだけ記しており、具体的な避難場所の選択は各校に委ねられていた。

 ◇想定外◇

 午後3時10分過ぎ、現場に居合わせた男性(70)は、児童らが列を作って校庭から歩き出すのを目撃した。「教諭に先導され、おびえた様子で目の前を通り過ぎた」
 その直後だった。「ゴーッ」とすさまじい音がした。男性は児童らとは逆方向に走り出した。堤防を乗り越えて北上川からあふれ出した巨大な波が、学校を含む地区全体に襲いかかった。住民や男性の証言を総合すると、津波は児童の列を前方からのみ込んでいったという。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて男性と同様に裏山を駆け上がるなどし、一部は助かった。

 宮城県沖で二つの断層が連動した地震が発生した場合を想定した津波浸水予測によると、河口付近の高さ5~10メートルに対し、小学校周辺は1メートル未満。だが、今回の津波は2階建ての同校校舎の屋根まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。また児童らが避難しようとした新北上大橋のたもとでも、電柱や街灯がなぎ倒されるなど津波の被害を受けた。

 「ここまで来るとは誰も思わなかった」。同地区の住民は口をそろえる。同市河北総合支所によると、防災無線の避難呼びかけは一度きり。同支所によると、釜谷地区全体での死者・行方不明者は住民の約4割の189人。津波を見ようと堤防に行ってさらわれたり、自宅にとどまり犠牲になった人も多かったという。

 ◇保護者の思い◇

 県教委によると地震と津波で死亡した同県の小学生は127人で、4割以上が大川小の児童だ。8日には行方不明児童の1人とみられる遺体が見つかった。学校の周辺は今も我が子の手がかりを追い求める親の姿が絶えない。「当時の状況を知りたい」という保護者らの思いは切実だ。

 3年生の孫を亡くした男性(61)は遺体発見まで3週間を要した。「せめて何年生が、どの方角に逃げたのかだけでも知りたい。捜索にもある程度の目星が必要。みんな早く見つけてやりたい一心なんです」と語る。

 関係者から避難状況を聞き取った同市教委は「想像を絶する大津波だった。学校の判断は致し方なかったと思う」とする。市教委によると、校長が9日夜、生還した教諭から状況を聞き取った結果を保護者に伝えるという。


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河北新報は4月10日、当日の避難誘導等について、市教委が聞き取り調査を行うことを報じた

大川小の被災状況調査へ
        津波で児童74人死亡・不明 <4月10日 河北新報>

 市教委、関係者に聞き取り

 東日本大震災の津波で全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明となった石巻市大川小の被災状況について、石巻市教委は9日、関係者の聞き取り調査を行い、結果を公表する方針を明らかにした。市教委と同校は同日夜、市内での保護者向けの説明会を開き、こうした方針を説明。出席した保護者からは被災時の避難誘導などを疑問視する声が相次いだという。

 市教委によると、調査結果の公表時期は未定。津波が襲った当時、校内にいた教職員のうち唯一生存している男性教諭からの聞き取りは終えており、児童や居合わせた保護者らからも話しを聞くという。

 大川小と教委による説明会は、新学期から仮教室を置く同市の飯野川一小であり、保護者ら約100人が出席した。柏葉照幸校長や市教委の今野慶正事務局長らが今後の方針などを説明。男性教諭も同席した。

 市教委などによると、子どもを失った保護者からは「地震後、直ちに高台に避難すれば子供たちは助かったのではないか」「なぜ大川小だけがこれだけの犠牲を出したのか」と激しく指摘する意見が数多く出た。被災児童の保護者への説明が約1ヶ月後になったことへの批判もあった。

 市教委によると、地震後、児童は校庭に避難し、一部は迎えに来た親と帰宅。残った多くの子どもたちが津波にのまれたという。


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産経ニュースは4月13日、人災ではないかとの見出しで追悼する会を報じた

石巻・大川小で追悼する会
       「天災じゃなくて人災だ」  <4月13日 産経新聞>

追悼集会で児童の遺体がみつかった場所に花を手向ける保護者ら

 全校児童108人のうち7割が死亡か行方不明になっている宮城県石巻市の大川小学校で13日、遺族や学校関係者ら約100人が集まり、犠牲者を追悼する会を開いた。

 校舎周辺には、震災から1カ月がたってもなお、泥や木材、コンクリートなどのがれきが散乱。粉塵(ふんじん)が舞う中、遺族らは花束を手向け、犠牲者を悼んだ。

 小学6年の娘を亡くした父親の村田栄二さん(43)は「避難させる学校の判断が遅かった。天災じゃなくて人災だ。学校を訴えるという人も出ている」と声を震わせた。

 石巻市教育委員会によると、追悼する会は地元の僧侶が、児童らを供養したいと保護者らに提案した。


   


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毎日新聞は4月19日の朝刊で、父母、児童、近隣住民らの証言をまとめて詳しく報じた

証言3・11:児童、泣き叫び嘔吐
            学校最多の犠牲者  <4月19日 毎日新聞>

大川小と証言者の位置関係

 全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が 出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸 した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から 避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニッ クに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。

〔以下の記事は、当日居合わせた児童、保護者、近隣住民の証言をもとに当日の様子を生々しく伝えており、読んでいて思わず手を合わせたくなります。〕

◇校舎のんだ津波「裏山に階段あれば…」

 その時

 「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父 母への感謝の気持ちを込めた児童の歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記 念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り 返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。 校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。

 先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式 で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと) したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。

 自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと 記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メ ートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。

 避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分 ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波 だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」

 黒い波

被災後の大川小学校

 大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で 校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」

 学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民ととも に新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さ は堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの 裏道を歩いた。

 同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4 年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。

 永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。 睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。 雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の 子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。
 遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない。

 判断

 列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。
 すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなか った--。

 当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は 行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。

 その後

 なぜすぐに裏山に避難しなかったのか--。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。
 石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。

 校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、 恐らく40~50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。

 狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ 子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」


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読売新聞は6月13日、地震から避難開始まで40分を要した経緯について報じた

避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小<6月13日 読売新聞>

地震から津波にのまれるまでの経緯

 東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明 になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波に のまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

 学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

 市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は 教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。
 午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「 高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

 ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

大川小の児童、教職員の被災状況

 一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

 当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任 に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

 市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の 北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台に避難することになった。

 避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿 いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。


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 河北新報社は震災から間もなく半年を迎えるという9月8日、朝刊紙面の4ページを使って、取材と検証を重ねた結果を詳細にまとめて発表した。この記事を4編に分けて以下に掲載する。
 第1面では、当時は現場にスクールバスが待機していたことや、高台への避難を相談していた状況だったことを報じた。 さらに、学校裏山への避難は緩い斜面を辿れば低学年でも5分で安全な高さへ行くことができることをわが子を亡くした親とともに確認したという。

検証/「学校前にバス待機」「全員が避難できた」<9月8日 河北新報>

下の画像をクリックすると、第1面の拡大紙面を見ることができる(不鮮明な部分はご容赦下さい)。

河北新報9月8日第一面:クリックするとPDFファイル(919KB)が開きます

河北新報社のWebサイトKolnetに掲載
  →検証 石巻・大川小の惨事/保護者ら証言「学校前にバス待機」「全員が避難できた」


                                         ページのトップへ戻る

 河北新報社は別紙面で、市教委が5月にまとめた事故報告書は、聞き取り調査対象者28人のうち子どもが9割を占めたこと、さらに児童の聞き取りは、 録音や録画は行わず、聴取中はできるだけ控えたというメモも報告書作成後に廃棄していたことについて、聞き取り調査の在り方についても専門家の解説を紹介しながら報じた。

検証・大川小の惨事/聴取方法、疑問の声   <9月8日 河北新報>

下の画像をクリックすると、拡大紙面を見ることができる(不鮮明な部分はご容赦下さい)。

9月8日河北新報紙面/クリックするとPDFファイル(491KB)が開きます

河北新報社のWebサイトKolnetに掲載
  →検証 石巻・大川小の惨事/聴取方法、疑問の声/録音せずメモ廃棄


                                         ページのトップへ戻る

 河北新報社は同日の別紙面で、惨事の要因について、北上川河口から約4キロ、海抜1~2メートルの釜谷地区にあった大川小は指定避難所だったことと、 堤防と山に挟まれた独特の地形が津波を意識させにくくしたのではないかと推定し報じている。

検証・大川小の惨事要因/山と堤防、視界遮る  <9月8日 河北新報>

下の画像をクリックすると、拡大紙面を見ることができる(不鮮明な部分はご容赦下さい)。

9月8日河北新報紙面/クリックするとPDFファイル(480KB)が開きます

河北新報社のWebサイトKolnetに掲載
  →検証 石巻・大川小の惨事/山と堤防、視界遮る


                                         ページのトップへ戻る

 河北新報社の取材に応じた児童や保護者、住民らのうち5人の証言で、地震発生から津波襲来までの51分間を克明に報じた。 第15面の全紙面を使い、地震発生時から津波に襲われるまでを時間を追いながらの詳細な記事となっており、あの日の惨状が伝わってくる。

検証・大川小の惨事/証言でたどる51分間   <9月8日 河北新報>

下の画像をクリックすると、第15面の拡大紙面を見ることができる(不鮮明な部分はご容赦下さい)。

9月8日河北新報紙面/クリックするとPDFファイル(1.13MB)が開きます

河北新報社のWebサイトKolnetに掲載
  →検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった


                                         ページのトップへ戻る

 河北新報社は11月10日の朝刊で、亡くなった生徒74人の遺族に「押し花写真」が届けられたことを報じた。この「押し花写真」は、遺族の一人、紫桃(しとう)さよみさん(45)が写真を集め、市内で押し花教室を開く女性(56)が制作したものという。

「押し花写真」犠牲74人の全遺族の元へ  <11月10日 河北新報>

 石巻・大川小児童74人 笑顔 野の花に包まれ

11月10日河北新報紙面/クリックすると押し花写真が贈られた記事(河北新報)のPDFファイルが開きます

上の記事をクリックするとPDFファイル(245KB)が開きます。
ボケ画像なので読みづらいと思いますが記事文面は確認できます。


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大津波の証言

石巻市 ・仙台市
南三陸町 ・名取市
女川町 ・気仙沼市
山元町 ・多賀城市
東松島市 ・亘理町
岩沼市 ・七ヶ浜
塩釜市 ・洋野町

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