証言の目撃地点マップは以下のとおり
東日本大震災により東松島市での死者は1047人、不明者75人(いずれも10月18日現在)という大きな被害となった。東松島市は鳴瀬川の東部が仙台平野と同じく高台といえば遥か離れた三陸自動車道の盛土しかない。一方鳴瀬川の西部は背後に小高い山が連なる野蒜地区だが、こちらもその山すそまで津波が襲いかかり、沿岸全域で壊滅的な惨状となった。
東松島市に関する津波証言記事は3月31日、朝日新聞社が最初に報じた。この記事は、津波被害者の証言というよりは「まさかの津波」にたった一人で造り上げた手作り避難所が多くの人命を救った美談として、佐藤さんと避難者の証言とともに報じられている →map
<1>手作り避難所、70人救った
野蒜駅近くの佐藤山 <3月31日 朝日新聞>
手作り避難所、10年かけ岩山に
「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。
700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。
東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」と感謝する。
一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。
佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。
「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻るように」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。(朝日新聞/木下こゆる)
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河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
東松島市内の証言記事は4月25日が最初である。海に近い自宅から車で避難したが渋滞に巻き込まれ近くの2階へ…という津波体験談である →map
<2>間一髪で民家2階へ・大曲コミセン近く <4月25日 河北新報>
◇間一髪で民家2階へ、そこら中「助けて」の声◇
地震から約30~40分後でした。海の近くの自宅から母親、弟と避難する途中、大曲コミュニティーセンター付近で、渋滞に巻き込まれました。身動きが取れなくて、引き返そうと海の方を見ると、もう津波が迫っていました。
道路脇の家の人が2階から「早く上がれー」と叫んでいました。「もう間に合わない」と母。とにかく急ぎました。3人と愛犬でその家の2階に駆け上がった直後、1階のガラスを突き破って水が入ってきました。間一髪でした。
ベランダの手すり越しに、渦を巻いた真っ黒な海と、次々と流される家や車、船、電柱が見えました。そこら中で「助けて」と叫ぶ声が聞こえ、とてもショックでした。
隣の家のわずかな盛り土部分に、8人ほど取り残されていました。家のカーテンなどで即席のロープを作り、自分が2階の窓から身を乗り出して、子どもと女性合わせて5人を引っ張り上げました。赤ちゃんが入ったスポーツバッグを引き上げる時は、緊張で手の震えが止まりませんでした。
「まるで地獄。何でこんなことに」と思いながら、不安な一夜を過ごしました。→map
河北新報社は、連載・大震災ドキュメント「その時何が」の8番目として5月21日、朝刊社会面の上半分の紙面を使ってJR仙石線・野蒜駅(単線区間)を同時刻に発車した2本の列車(ともに4両編成の上り仙台行きと下り石巻行きの2本)が地震発生で緊急停止した位置がどこだったのかで乗務員と乗客の命運を分けたことを詳細に報じた。
上り仙台行きは列車が流されたのに対し、下り石巻行きは高台に停車した。それぞれの乗務員、乗客の証言をもとに当時の様子が克明に再現されている →map
<4>命運分けた停車位置 <5月21日 河北新報>
消えた列車
震災の直前、JR仙石線野蒜駅(東松島市)を同じ時刻に発車した2本の列車があった。ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。海沿いを走行中に地震に襲われ、3月12日の朝刊は「野蒜駅付近を走行していた列車と連絡が取れないとの情報がある」と伝えた。乗客の明暗が分かれた。
3月11日午後2時46分。2本の列車は時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ出発した。窓の外は雪が舞っていた。
仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。駅を出てすぐ、携帯電話が一斉に鳴りだした。「宮城沖で地震発生」。緊急地震速報だった。ほぼ同時に車両が揺れ始めた。
あちこちで悲鳴が上がった。石巻専修大3年菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。「大人2人に揺さぶられて
いるようだった」
車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。近くには東松島市指定避難所の野蒜小があった。
「乗客を野蒜小に避難させてください」。仙台のJRの指令担当者から無線指示を受けた乗務員の案内で、乗客は約300
メートルの道のりを歩いた。誘導された体育館には、既に100人以上が避難していた。
午後3時50分ごろ。「津波が来たー! 2階に上がれー!」。入り口近くにいた菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。人
が殺到した近くの階段を避け、ステージ奥の階段へ走った。そこも行列だった。順番を待つ間に水は足首まで達した。
現実感がなかった。「映画みたいだ」と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に割れ、泥水が一気に流れ込んできた。後ろに
いた女の子やお年寄りが声もなく流されたが、なすすべはなかった。必死で2階に上った。
JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。混乱の中、安否を確認できた人数は
約20人。2カ月が過ぎた今も、体育館に避難した乗客数すら「不明」のままだ。
津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。菊谷さんは「もし車内に残っていたら、死んでいた
だろう」と振り返る。
高台の下り線、津波免れる
下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。幸運にもそこは十数メートルの高台だった。
「とどまった方が安全だ」。地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しようとした若い乗務員に助言した。乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある3両目で待機することになった。
高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。「上り列車は無事だろうか」。石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅ですれ違った列車の安否が気掛かりだった。
乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの男性を救出した。震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
「暗くなる前に一口ずつどうぞ」。ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。それを機に和泉さんらほかの乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。自然に分かち合いの輪が生まれた。
1人だけ、心細そうな男の子がいた。大人がさりげなく見守り、励ました。夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。「みんな自分のことのようにホッとした」と和泉さん。その晩、男の子は母の腕で眠った。
夜は長く、寒かった。乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。
12日朝。乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、指定避難所の公民館へ向かった。
「一人一人ができることをやった。みんなの力で乗り越えられた」。和泉さんは今、そう思っている。
(河北新報/藤田杏奴、野内貴史)
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河北新報社の“私が見た大津波”の6月5日掲載版。海沿いのNPO法人「創る村」にいて2階に避難して難を逃れたが、近くに流されてきた人をはじめ船を使って数名の人名を救ったという →map
<5>濁流から女性を助ける・創る村 <6月5日 河北新報>
「助けて!」濁流から女性を助ける
奥松島を望む海沿いのNPO法人「創る村」=東松島市=にいました。屋内は揺れでめちゃくちゃになり、開所間近だった高齢者施設の2階に避難しました。
松島湾は水が引いていて、野蒜海岸方面から近所の建物の間を縫うように、津波が押し寄せてきました。「来た!」と叫び、10人ほどいた仲間全員を2階に呼び寄せました。波は真っ黒で、次々に車や民家をのみ込んでいきました。
「助けて」と声が聞こえました。近所の女性が濁流に流されていたのを見て、手をつかんで引き上げました。その後、数百メートル先のがけ下に取り残されていた女性を、他のスタッフと船で救助しました。左脚に大けがをしていて、低体温症になっているようでした。一晩中、みんなで体をさすって温め、女性は一命を取り留めました。
翌朝、車や家に取り残された人の救出に向かい、さらに4人を施設で受け入れました。何とか生存者を助けたいという気持ちでいっぱいでした。
当時の記憶は実感に乏しく、映画を振り返るようにしか思い出せません。絵に描いたのは津波に流され、助かった人です。→map
河北新報社の“私が見た大津波”の6月7日掲載版。津波時の避難場所にもなっている大曲浜新橋のたもとに着いたが、そこで見たのが、10メートル以上はありそうな真っ黒い波だった →map
<6>10m以上の黒い波が迫る・大曲浜新橋付近<6月7日 河北新報>
10メートル以上の黒い波、集落のみ込む
大曲浜地区の防災誘導員を務めているので、地震の揺れが収まった後に、自転車で20分ほど地区を見回り、早く避難するよう呼び掛けました。
その後、北上運河に架かる大曲浜新橋のたもとに向かいました。そこは海から400メートルほどの距離で、周囲より数メートル高く盛り土され、津波警報が発令された際の避難場所にもなっています。
区長さんや誘導員の人が6、7人集まっていました。国道45号方面に向かう道路は大渋滞していました。
20分ほどたったころ、ふと運河の対岸にある、石巻湾に面した集落の方を見ると、10メートル以上はありそうな真っ黒い波が、壁のように連なって、こちらに向かってくるのが見えました。
その時既に、集落の半分ぐらいはのみ込まれていました。驚いて自転車に飛び乗り、国道45号方面に向かいました。無我夢中でこぎ続け、気づいた時には国道45号を通り過ぎ、三陸自動車道の高架下にいました。
外出していた妻を亡くしました。一緒に避難場所で誘導していた人も、まだ行方不明の人がいるようで残念です。
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河北新報社の“私が見た大津波”の9月9日掲載版。妊娠中ながら車を乗り捨てて長男が乗っていたはず電車を走って探し当てた。しかし電車の中は無人。避難所の野蒜小に向った →map
<7>体育館に真っ黒い渦・野蒜小学校 <9月9日 河北新報>
体育館に真っ黒い渦、避難者のみ込む
3月11日は仕事が休みでした。東松島市大塚の自宅で、大きな揺れに襲われました。
一時避難所に義母と次男を避難させた後、野蒜小から仙石線で下校途中のはずの長男を捜しに車を走らせました。
東名運河沿いの道路が渋滞したため、妊娠中でしたが、車を乗り捨て、走って電車を探しました。踏切の近くで見つけた電車には人の気配がなかったので、野蒜小に向かいました。
体育館で長男に会うことができました。電車の乗務員に誘導され、学校に避難したそうです。
体育館は人でいっぱいでした。校舎に移ろうとした時、車などが濁流に流されてくるのが見えました。私は息子の手を引き、体育館のギャラリーに上りました。
濁流はすぐに体育館の中に流れ込み、真っ黒い渦を巻きながら、避難してきた人たちをのみ込みました。床から1メートルぐらいの高さのステージに逃げた人たちは、どんちょうをつかんだり、お互いにしがみついたりしていましたが、水が引いた後、多くの人が亡くなったことを知りました。
午後11時ごろ、消防団などの助けで校舎に移動しました。寒さに耐えながら一夜を過ごし、翌朝、家族と再会しました。→map