南三陸町の津波による死者数は566名、行方不明者数が310名(12月28日現在)にも上った。
 住民の大多数が「地震の後には津波」との意識が高かった地域でありながらこんなにも多くの犠牲者が出てしまった。防災対策庁舎では繰り返し「高台へ非難してください」と防災無線で呼びかけ続けていたが、まさかその3階建て庁舎屋上を2mも上回るとんでもない津波が襲ってくるとは、高台に避難していた人たちさえ目を疑ったことだった。


証言の目撃地点マップは以下のとおり


河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
南三陸町の証言記事は4月19日が最初である。美容院経営者が地震後、津波の襲来を予測して高台の中学校に避難し、そこから海面が一気に膨らんで街をのみ込む様子を綴った→map

<1>海面、一気に膨れ上がった 志津川中 <4月19日 河北新報>

 地震の時は姉と経営する美容院にいました。立っていられないほどの揺れで、収まった後は津波から逃げる準備をしました。

 昨年2月のチリ大地震津波では避難が深夜に及び、寒さと空腹がつらかった。
教訓から毛布やコメ、カセットコンロなどを車に積み、母を乗せて高台にある志津川中に急ぎ、午後3時すぎには避難を終えました。

 それから約20分。津波が砂煙を上げゴーゴーと近づいてきて、気付いたら眼下一面が海でした。津波は上からザブンと来るのではなく、海面がガーと一気に膨れ上がるんですね。

 津波は優に10メートルを超え、JR気仙沼線にぶつかり、家をメリメリ壊し、丘に漁船を運び、渦も巻いていました。雪の中でその光景を眺めながら、「もう終わりだ」と思いました。

 中学校には生徒ら約400人が避難していました。姉がおかゆを作り、高齢者らに食べさせて寒い夜をしのぎました。

 「地震が来たら津波!」とたたき込まれて育ちました。教えを守って逃げたから、今があると思っています。

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河北新報社の“私が見た大津波”の4月28日掲載版。漁港を見下ろせる標高約20mの高台に建つ民宿で地震に遭い、そのあと庭先まで押し寄せた津波を体験した→map

<2>跳ね返った波、再び陸へ・歌津   <4月28日 河北新報>

 跳ね返った波、高さを増して再び陸へ

 寄木漁港を見下ろす高台の民宿「やすらぎ」で地震に遭遇しました。夫(63)や長男(42)は養殖施設の修理で沖にいました。空は山林から飛散した花粉で黄色に染まりました。母屋はゆらゆらと大きく揺れ「これはただごとではない」と直感しました。

 防災無線が「6メートルの津波が来る」と叫んでいました。沖から戻った夫は、縄を伸ばし船を津波から守ろうとしましたが、私は「船なんか惜しくないから、早く高台に上がって」と怒鳴りました。

 間もなく湾の水が引けて海底が露出しました。それから8分後、ゴーという地鳴りとともに津波が来ました。雷が鳴り小雪が降っていました。湾の奥の山にぶつかって跳ね返った波は、第2波と重なって高さが倍増し、再び陸に押し寄せました。

 「悪夢でも見ているのだろうか」。信じられない思いでした。水は標高20メートルはある民宿の庭先まで来ました。港周辺にあった民家がすべて流され、水面に多数のがれきや家、船が浮かんでいました。

 波は5、6回来た気がします。第2、第3波で建物が全滅しました。
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河北新報社は5月7日の朝刊20面のほぼ一面を使用して、津波が河川をすさまじい勢いでさかのぼり海が見えない山あいの集落を襲ったという3地点の証言記事を報道した。そのうちの一つが河口から直線距離で約3㌔にある志津川秋目川の記事である→map

<3>危険区域外 町覆う・志津川秋目川 <5月7日 河北新報>

 海見えぬやまあいの集落まで爪痕

 ◇危険区域外 町覆う◇

 「地震後は自宅にいて。のんびり構えていた。津波がここまで来るとは、夢にも思わなかった」
 宮城県南三陸志津川秋目川の首藤寛さん(76)は、未曾有の出来事に驚きを隠さない。
 自宅は志津川から直線距離で約3㌔も内陸にあるが、床下浸水し、畑も水をかぶった。津波は八幡川などを通じて上流へと駆け上がり、水しぶきやほこりを舞い上げながら、辺りの鉄道の線路や建物を破壊した。

 「なんぼ大津波でも、ここまで来たら、志津川の町は全滅だ」と首藤さん。
 首藤さんの自宅から500㍍ほど下流域にある小森集落も、甚大な被害を受けた。約15戸の大半が流出。十数人が亡くなった。家の中にいて犠牲になった人が少なくないという。
 無事だった高橋良子さん(32)は、3月11日の信じ難い光景が脳裏に焼き付いている。
 地震から約50分後の3時35分ごろ。自宅近くの高台(高さ約10㍍)に避難した。濁流は八幡川に収まりきらず、町全体を覆う。大きな漁船や8㌧の保冷車、家の屋根が次々と流されてきて、自宅は1階が浸水した。

 集落は1960年のチリ地震津波では被害を受けなかった。浸水危険区域には入っておらず、津波に対する訓練はほとんどなかったという。
 高橋さんは「ここまで津波は来ないだろう、という油断があった。今後は大きな地震が起きたら、高い所へすぐに逃げるよう、周囲にも徹底したい」と自戒している。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の5月8日掲載版。南三陸町役場近くで経営する旅館で地震に遭い、志津川小学校へ避難し津波を目撃した→map

<4>家々一瞬でのみ込む・志津川小   <5月8日 河北新報>

家々一瞬でのみ込む、まるで映画の特撮

 南三陸町役場近くで両親と3人、江戸後期から続く旅館を営んできました。

揺れが収まった後、母と近所のおばあちゃんを車に乗せ、犬を抱き、高台の志津川小に向かいました。父は町外に外出中でした。

 家を出る時、脳裏をよぎったのは「割れた玄関の窓の片付けが大変」「津波で畳がぬれたら、今夜は2階で休もう」でした。悪くても床上浸水程度で、片付けたら住めると思っていました。

 小学校の校庭から見た津波は、想像を絶する大きさでした。水門を超えたと思ったら、巨大なバケツで町に水を掛けたように、家々を一瞬でのみ込みました。

 まるで映画の特撮。バリバリという音と砂煙とともに、無数の家や車がミニチュアのように流され、粉々にされました。

 プロパンガスのボンベが管から外れ、「パン」「プシュー」という音が方々から聞こえ、しばらく一帯にガス臭が漂いました。現実とは思えない出来事が続いたため、涙が出る余裕もありませんでした。

 家族が無事だったことがせめてもの救いです。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月22日掲載版。避難した志津川中学校から眼下の上流域に見える3階建ての合同庁舎の様子が描かれている→map

<5>ゴーゴー音を立てぶつかる建物・志津川中【5月22日 河北新報】

 雪が降る中、避難した高台の志津川中から、津波が町をがれきに変えていく様子を、ぼうぜんと見ていました。

 眼下の合同庁舎屋上には4、5人が取り残されていました。家の柱や車が「ゴーゴー」と音を立ててぶつかりました。記憶にあるのは、流されてきた赤い屋根の家。庁舎の屋上に乗り上げ、人にぶつかるのではないかと思うほどの勢いでしたが、そこまで水位は上がらず、ほっとしました。

 この時、一番の気掛かりは子供の安否でした。高校生の長男(17)は海辺の公民館に卓球部の練習に出掛けていました。携帯電話はつながらず、パニック状態でした。
 長女(23)は気仙沼市にいました。地震直後に電話で「大丈夫」と声を聞きましたが、夜、カーナビのテレビで気仙沼が火の海になっているのを見たときは、生きた心地がしませんでした。

 結局、12日には2人の安全を確認できました。夫も含めて家族全員無事だっただけで幸せだと思いますが、七五三や成人式など、子供たちとの思い出の写真が全て流されてしまったことを考えるたびに、つらくなります。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月28日掲載版。海岸に近い位置にある高野会館で地震に見舞われ、会館屋上に避難して流れ去るがれきの中の我が家を見つめていたという目撃談である→map

<6>西から東へ自宅を押し流す・高野会館 <5月28日 河北新報>

 地震が発生した時は、公立志津川病院の近くにある高野会館で「高齢者芸能発表会」を見ていました。会場には300人ぐらいいたと思います。

 揺れが収まって帰ろうとすると、玄関で会館の支配人が「外は危ないから出ないように」と何度も言っていたので、そのままとどまりました。
 外の様子は分かりませんでしたが、近くにいた人が「海の底が見えるほど水が引いている。大津波がくる」と言いました。全員で4階に上がりましたが、4階テラスも波をかぶるようになったため、屋上へ逃げました。

 屋上から見ると、町全体が泥水に覆われていました。その時、見慣れた屋根が西から東へ、引き波でどんどん流されていくのが見えました。
 私の自宅でした。茶色とグレーが混ざったような瓦の色と2階の物干し場を見て「間違いない」と思いました。ほかにも、さまざまな物が流れていたと思いますが、自宅以外は目に入りませんでした。

 夜、水が引いてから4階に降り、一晩中立ったままで過ごしました。余震で揺れる度に「また津波がくるのではないか」と、恐怖を→map


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河北新報社が防災対策庁舎の悲劇を証言を組み立てて「震災ドキュメント・その時 何が」で詳しく報道したのは、6月1日の紙面だった。職員が屋上でアンテナにすがりながら撮影した画像を見ると思わず息を飲んでしまう→map津波の悲劇:防災対策庁舎へも掲載)

<7>悲劇の防災庁舎でシャッター◆宮城・南三陸【6月1日 河北新報】

 襲来の瞬間、悔恨の数こま

 がれきの町に赤い鉄骨だけを残す3階の建物。宮城県南三陸町の防災対策庁舎は、津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道されてきた。屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の現場。その屋上で男性職員は、庁舎が大津波にのまれる瞬間をカメラに収めていた。

 その時、南三陸町総務課の加藤信男さん(39)が構えたカメラの設定が正確ならば、3月11日午後3時34分だった。海岸から約500メートル離れた町防災対策庁舎を、巨大津波が直撃した。
 「『決定的瞬間』とか『決死のシャッター』だとか、ほめられた話じゃない。こんな所まで津波は来ないと油断し、逃げ遅れた。反省、後悔…。つらい写真です」
 激しい揺れが襲った時、隣接する木造の町役場1階にいた。当時は企画課で広報を担当して3年目。「何かあったらすぐ写真を撮る。それが習慣になっていた」。揺れが収まると、使い慣れた一眼レフカメラを手に取った。
 書類が散乱した役場内、屋外の様子。「どうせ津波が来ても1、2メートル。その時は防災庁舎に上がればいい」。そう思いながら撮影を続けた。
 「津波が来るぞ!」との声を聞き、加藤さんも庁舎屋上に上がった。
 レンズ越しに眼前に迫る津波を見ても「恐怖心はなかった」。波に足をすくわれ、われに返った。「まずい」

  屋上まで津波「油断した」

【←写真:防災対策庁舎の屋上から加藤さんが撮影した大津波が押し寄せる瞬間=3月11日午後3時34分(南三陸町のホームページから)】

 その日は町議会の最終日だった。役場には佐藤仁町長や職員約40人、町議らがいた。地震後、佐藤町長や職員、町議の何人かが防災庁舎に向かった。
 防災庁舎2階の防災無線の放送室では、危機管理課の女性職員が高台への避難を繰り返し呼び掛けていた。
 津波が迫る。職員らが屋上に続く階段を続々と駆け上がった。間もなく、巨大津波が屋上をたたく。何人かは、そびえる無線アンテナにしがみついた。
 加藤さんは首から提げていたカメラを、とっさにジャンパーの内側に入れた。屋上を流され、やっとのことで外階段の手すりにつかまった。階段の手すりに背を向け、柵に左足を絡めた。
 津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支点にエビぞりになった。体を起こそうにも水圧に勝てない。水位がどんどん上がる。顔が激流にさらされ、沈み、水を飲んだ。
 死を覚悟したとき、胸ぐらをつかまれた。
 「ほら頑張れ!」。そばで同じように津波に耐えていた副町長の遠藤健治さん(63)が、体を起こしてくれた。
 激流の中で遠藤さんの手が離れると、また潜った。「やっぱり駄目か」。諦めそうになると、遠藤さんがまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。その繰り返し。生死の境を何度も行き来し、気付くと津波が引き始めた。

 翌日、骨だけの庁舎に絡んだ漁網などを伝って、がれきが重なる地上に下りた。しばらく体調がすぐれず、カメラを確かめたのは10日ほど後。本体は壊れていたが、データは無事だった。
 残っていた数十こまの写真には、犠牲になった上司や行方が分からない同僚の姿も写っていた。
 町は3月末、加藤さんが残した写真のうち6枚を、町のホームページで公開した。関係者らの心情に配慮し、人物が写っていないこまに限った。
 「みんなが真剣に津波防災に取り組む参考にしてほしい。写真は避難が遅れた証拠。見た人には『津波の時はまず避難』と思ってほしい」
 忘れたい出来事さえも伝え残さなければならない。加藤さんら助かった職員らは葛藤しながら、復興の前線に立ち続けている。→map

 Web上に掲載されている防災対策庁舎が津波に襲われているときの画像

 画像→波が引くと屋上の30人が10人になっていた(309KB) →ソース


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河北新報社の“私が見た大津波”の8月21日掲載版。一旦は指定避難所の上の山都市緑地に避難したものの津波に追われ、さらに高台へ必死に逃げたという体験談である→map

<8>濁流が迫り、藪をかき分け逃げた
           上の山都市緑地  <8月21日 河北新報>

 長女が住む十日町で、2歳になる孫の子守をしているときに地震が起きました。家が大きく揺れ、食器が床に落ちました。

 気仙沼市の勤め先にいた長女の夫から「津波が来るから、揺れが収まったら近くの高台にすぐ逃げて」と電話がありました。孫と勤め先から帰っていた三女と3人で、貴重品や薬などを持って、指定避難所の上の山都市緑地を目指しました。

 避難していたら、「ゴー」という地鳴りのような音とともに、目の前に真っ黒な津波が押し寄せ、家や車、木材が流されていきました。灰色の空と、津波が引き起こした白い水煙が、強く印象に残っています。

 誰かの「ここも危ない」という叫び声を合図に、さらに高台にある志津川保育所へ逃げました。園庭にも濁流が迫ってきたので、みんなでやぶをかき分けて、裏山伝いに志津川小まで逃げました。雪が降る中、孫に歩けるか聞くと、反対に「おばあちゃん大丈夫?」と聞かれ、涙が止まりませんでした。

 公立志津川病院に勤めていた長女と、気仙沼市にいた義理の息子とは数日後、再会できました。互いに抱き合い、泣きました。→map





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河北新報社は10月2日、「3.11大震災 証言」の特集記事で初めて南三陸町営松原住宅の当時の様子を詳細に報道した。津波避難ビルとして建てられたこのビルに住民は留まるか逃げるか葛藤の末、屋上へ避難したが、津波は腰近くまで押し寄せた。必死に耐えた屋上の44人の体験談だ→map

<9>避難ビル、残るか否か・町営松原住宅【10月2日 河北新報】

 避難ビル、残るか否か

 海までわずか十数メートルの位置に、防波堤のように立つ宮城県南三陸町の「町営松原住宅」。東日本大震災で大津波を真っ正面から受け、4階屋上まで海水が押し寄せた。建物は町が指定した「津波避難ビル」で、その強度もあって倒壊を免れた。入居者ら計44人が短時間で屋上に逃げ、全員無事だったが、寒空の中で孤立。備蓄もなかった。海の真ん前とあって、車で高台へ逃げた入居者も少なくなかった。

<葛藤>

 腰近くまで波しぶきが迫る。町営松原住宅の屋上。1階から避難した菅原恵さん(46)は夫昌孝さん(51)と、4歳の長男大ちゃんを水にぬらすまいと必死にかばった。  「まさか、ここまで津波が来るなんて。神様、どうか助けてください。死にたくない」。柵にしがみつき祈った。  屋上か、それとも高台か―。住まいは避難ビルだが、葛藤があった。震災発生から約30分。目の前に広がる海の異常な引き波を見て、菅原さん夫婦の顔はこわばった。「これはまずい」。津波の襲来を察知した。  「どうする? 志津川小学校に逃げるか」。高台の同小までは直線で約1.5キロ。車で10分もかからない距離だ。「でも、橋が落ちて渋滞していたら終わりだ」。夫婦は屋上を目指す。  松原住宅が立つ同町志津川地区の汐見町周辺は平地で、そばに高台はない。津波到達まで時間がないと予想される場合、松原住宅は一時避難所としての機能を担う。  「到達予想の3時まで10分もない。早く逃げなければ」。松原住宅から約100メートル北東の公民館で、町職員石沢友基さん(28)は焦っていた。  公民館に隣接する体育館にいた志津川高の卓球部員17人が外に飛び出し、うろたえている。「あの建物の真ん中に階段あっから、上まで上がっていけ!」。迷わず松原住宅への避難を指示した。  当時、松原住宅には48世帯107人が入居。屋上に避難した44人のうち、入居者は22人だったとみられる。  「頑張れ、頑張れ」。波が襲った屋上では、住民が声を掛け合い、柵にしがみついた。はるか遠くにさらに巨大な波が見える。「これ以上波が高かったら、もう助からない」。菅原さんは息をのんだ―。

<集中>

 志津川小校庭。「あっ、波が乗った、ああーっ」。松原住宅の自宅から逃げてきた臼井恵美さん(35)は、波が住宅をのみ込む瞬間を目撃した。
 屋上に逃げようとは思わなかった。「高さが15メートルといっても、真っ正面から津波を受け止めるなんて。建物自体が防波堤みたいで怖かった」。駐車場では、入居者が慌ただしく車で避難しようとしていた。
 臼井さんは志津川小に通う2人の子どもを案じ、車で同小へ。ただ、ハムスターなどのペットを連れ出すのに手間取り、出発が遅れた。小学校付近の坂道は車が集中し渋滞。「5台ほど後ろの車が波でスーッと流れた」。危機一髪。津波はすぐ背後まで迫っていた。

<救出>

 波をかぶった松原住宅の屋上では、修羅場が待ち受けていた。雷鳴とともに雪が吹き付ける。「上がれる人は上がって!」。波は大人のひざほどの高さで止まったが、住民らは次を警戒してエレベーターホールの天井に上った。水位が下がったのは午後5時すぎだ。  屋上は雪で白く染まり、冷え込みが厳しい。石沢さんは避難者と協力し、水が引いた部屋からふすまなどを運び出し、風よけを作った。「辺り一帯はガス臭くて、明け方まで火をおこすことができなかった」  菅原さんの背中で、大ちゃんが繰り返しせがむ。「ママ、おなかすいたよ」。低血糖で体調不良を訴える高齢者もいた。高校生が持っていたあめ玉や飲み物でしのいだが、衣服がぬれた住民の疲労は限界に近かった。  屋上の避難者が全員救出されたのは、翌日夕方。徒歩で避難する途中、菅原さん夫妻は遠くに住宅を見やり、生きている実感をかみしめた。  「怖い思いはしたけれど、あの建物が倒れなかったからこそ、救われたんだ」

 強度設計生きた

くいを岩盤に倒壊防ぐ/孤立・備蓄、課題も浮き彫り

 荒涼たる海岸沿いにぽつんと立つ宮城県南三陸町の町営松原住宅。東日本大震災で、屋上に避難した住民らはこう振り返る。「夜通し襲ってくる余震と津波で、建物が倒れてしまうのではないかと不安だった」  震災から半年余り。建物周囲の土地は浸食によって海水が流入し、住宅はあたかも志津川湾に浮かぶ島のようだ。地盤沈下が進行し、一時は建物の下に空洞が生じていたが、くいの打ち込み部分はしっかりと残る。  東西2棟から成る松原住宅は築年数が浅く、1棟目が2005年10月、2棟目が06年3月に完成した。周辺にはグラウンドや公民館がある。周辺一帯は公園として整備。高台がないため、松原住宅は町民の避難場所としての役割が重視された。

<指針見直しに反映>

 手を伸ばせば海に届きそうな立地。高さ5.5メートルの防潮堤のすぐ背後だけに、異論もあった。「チリ地震津波(1960年)の浸水域に建てなくても」「津波が来る海に向かって逃げるのか」。合併前の旧志津川町が整備を検討した当時、町議会ではこんな批判があった。  佐藤仁町長は計画当初、東北大災害制御研究センターの今村文彦教授(津波工学)に相談。今村教授は「周辺に避難場所がなく、強固なものを建てれば避難ビルになるので賛成だ」とした上で、強度設計に十分配慮するよう助言した。  松原住宅は鉄筋コンクリート(RC)造りで、建物のたわみが少なく、地震に強いとされる壁式工法を採用。沿岸部の地盤は弱いとされたため、深さ22メートルの岩盤層まで約240本のくいを打ちこみ、倒壊防止を図った。建物を1.5メートルかさ上げするなどの津波対策も施した。  2005年に内閣府が策定した津波避難ビルのガイドラインでは、指定要件として(1)1981年の新耐震設計基準に適合するRC構造(2)予想浸水が3メートルの場合は4階建て以上―などとしている。  松原住宅は倒壊を免れたが、他の地域ではRC造りの建物が津波で倒壊するケースもあった。震災を受け、国土交通省は被害建物の調査に着手し、今後の避難ビルの構造設計法とガイドラインの見直しに反映させる。

<高さ5階以上必要>

 建物の強度検証などとともに、被災住民は十分な高さの確保や孤立を防ぐ対策を求めている。
 松原住宅の屋上に避難した菅原恵さん(46)は「地震後にすぐに逃げるなら山を選ぶ。もし波が迫れば、陸続きで山伝いに逃げられる」と指摘。夫の昌孝さん(51)も「避難建物の階数を高くすると同時に、避難の長期化も想定して、せめて乾パンぐらいの備蓄がほしい」と言う。
 屋上を避け、志津川小に車で避難した木下美紀さん(37)も「屋上に逃げても助けは来ないと思った。浸水したら孤立は避けられない。飲料水すらない避難ビルなんて…」と語る。
 地震・津波対策を検討する中央防災会議の専門調査会は、9月28日にまとめた最終報告で「5分程度で避難が可能となるよう、津波避難ビルなどを整備するべきだ」とその重要性を指摘した。
 今村教授は「今回、屋上まで浸水したことを考えると、5階以上の十分な高さが避難ビルには必要。その上で、ビル間を結ぶなど、さらに高い場所に移動できる手段の確保が求められる。最前線で活動する消防団の安全性も高まる」と課題を指摘する。
[津波避難ビル]住民らが緊急避難するための海沿いのマンションやビル、公共施設。自治体が所有者と協議して指定する。内閣府によると2010年3月時点で、沿岸部の653市区町村のうち、指定されているのは137自治体の計1790カ所にとどまる。

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河北新報社は11月13日、「証言/3・11大震災」の記事で南三陸消防署員、及川さんが津波で海に流され約3時間にわたって10㌔も漂流の後、岸に打ち上げられて九死に一生を得た様子を本人および、海岸に打ち上げられた及川さんの意識を蘇らせた人たちの証言を元に克明に伝えた。この記事は、津波に流されるまでの状況も含め、及川さんのその時の様子が立体的に表現されているだけでなく、及川さんを助けた人たちの取材も丹念に行われた力作である。実際の紙面(撮影画像)を掲載する→map

<10>消防署員10K漂流 海に3時間 【11月13日 河北新報】

家族を思い諦めず 南三陸の消防署員、津波で10キロ漂流

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中学生必死に介抱 日ごろの救命講習実る

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大津波の証言・南三陸町

  

大津波の証言

石巻市 ・仙台市
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山元町 ・多賀城市
東松島市 ・亘理町
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