証言の目撃地点マップは以下のとおり


河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
仙台市内の証言記事は4月23日が最初である。勤務先の仙台港・キリンビール工場に津波到達50分前に戻り、自社ビルに避難して津波を目撃した→map

<1>力の強さに圧倒・キリンビール仙台工場 <4月23日 河北新報>

 静かに迫る水、力の強さにぼうぜん

 外出先で地震に遭い、勤務していた仙台市宮城野区港の工場に到着したのは午後3時でした。従業員や一般見学者の屋上への避難が始まっていました。工場は市との協定で避難ビルに指定されているので、近隣住民の姿もありました。

 50分後、津波は静かに、じわーっという感じで工場敷地に入ってきました。

海に面した仙台港側には、出荷を控えた商品を山のように積んだ倉庫や、原料の大麦麦芽が入ったサイロがあるため、津波の勢いをそいだのではないでしょうか。

 津波の水位は2メートルほどだったと思います。ビールだるなどの商品だけでなく、自動車や重い貨物コンテナまでも次々に流されていきました。力の強さに圧倒され、声もなく、ただぼうぜんとするばかりでした。

 仙台に赴任して2年。3月末で退職しました。地震が大嫌いで命を守れる実効性のある対策をと、訓練をしてきました。離任直前の被災に「自分は試されているのか」とも思いました。翌朝、自衛隊の救助で、見学者らを避難所に送り出した時は心底ほっとしました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の4月29日掲載版。「犬と残る」という三男を自宅に残し、中野小屋上で黒茶色の津波を目撃。「もう三男はダメかと思った」という体験談である→map

<2>家や車両を次々飲み込む・中野小  <4月29日 河北新報>

 黒茶色の波、家や車両を次々のみ込む

 猛烈な揺れを感じたのは仙台市若林区の卸商団地で仕事をしていた時でした。自宅に1人でいる母(89)が心配になり急いで自宅に帰りました。

 母はいませんでした。近くの中野小へ避難したと思い、三男(22)を連れて逃げようとしましたが「犬と残る」と聞きません。私もその時は「大丈夫だろう」と安易に考え、三男を置いて避難しました。

 母と妻らのいる中野小の屋上へ駆け上がった直後でした。七北田川の水位が上がり始めたのです。誰かが「来た来た」と叫ぶと同時に、黒茶色の津波が校舎に迫ってきました。家や車両を次々とのみ込む姿に震えながら、「三男はもう駄目だ」と覚悟しました。

 津波が収まった後、雪が降り始めたため、泥水がたまった2階に降りました。寒さと興奮で眠れず日付が変わったころ、長男から三男の無事を知らせる連絡がありました。三男は自宅ごと流されましたが、一命をとりとめ、避難していました。

 校舎は海水とがれきの中で孤立し、ヘリコプターで救助されたのは翌12日夕のことでした。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の5月9日掲載版。逃げた高台から見た湾内の大きな引き波と、そのあと襲ってきた津波の目撃談である→map

<3>濁流にもまれる家や車・若林区三本塚  <5月9日 河北新報>

 流された家や車、濁流にもまれていた

 大きな揺れを感じたのは、海から3キロ余り離れた自宅兼事業所でした。業務用の焼却炉が緊急停止し、敷地内の蔵の一部も崩れました。

 念のため家族は車で避難所へ逃がしましたが、正直、ここまで津波はこないだろうと思っていました。しかし、しばらくすると従業員の一人が「水だ。(防潮林の)松が見えない」と声を張り上げたのです。

 津波は白い水しぶきを上げながら、黒い濁流となって南東から迫ってきました。慌てて、高さ8メートルある排ガス処理施設に全員で駆け上がりました。

津波は2分足らずで事業所に迫り、見慣れた光景が次々と浸水しました。

 津波は事業所のすぐ西にある仙台東部道路にぶつかりました。流れがせき止められたところに、波状に押し寄せる水が加わって、三本塚の水位がぐんぐんと上がり、流された家や車が濁流にもまれていました。

 近くには屋根の上で助けを求める男性がいて、朝まで従業員と励まし続けました。名取市の方角では火災も起きていたようで、燃えさかる炎と煙が見えました。水位が下がり、家族と再会できたのは翌日の昼のことです。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月20日掲載版。東六郷小に避難し、人でごった返す教室から間近に見た津波の目撃談である→map

<4>、松林を越える波しぶき・東六郷小  <5月20日 河北新報>

 しぶき、松林越え黒茶色の水襲来

 地震の後、東六郷小に避難しました。校庭はほぼ満車の状態。寒かったので、避難した人は車に残ったり、体育館に行ったりしていました。

 地震発生から約40分後、「津波が来た!」という声で海の方を見ると、約2キロ離れた松林がまばらになり、合間に白い雲のようなものが見えました。松林とほぼ同じ高さの波しぶきでした。学校の近くで生まれ育ったわたしには、松林を越えて津波が来るなんて信じられませんでした。

 急いで校舎2階に上がり、人でごった返す教室から外を見ると、校庭に黒茶色の水が来ました。車がスーッと流され、校庭は瞬く間に、根がむき出しになった松の木や車、壊れた建材でいっぱいになりました。波しぶきを見てからわずか数分間の出来事でした。

 水かさは2メートルはあったでしょうか。校舎近くの水面に取り残された人もいました。居合わせた人たちはカーテンをつなぐなどして、助けようとしましたが、引き上げられなかった人もいました。

 学校は避難場所だったのに、校庭の車の中や体育館で流された人もいました。当初は浸水のため、毛布などの備蓄物資も取り出せませんでした。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月31日掲載版。車で逃げても間に合わないと思い、2階へ避難して高さ6、7メートルほどもある黒い壁が襲ってきたという体験談である→map

<5>巨大な生き物の塊が・若林区井戸   <5月31日 河北新報>

 「巨大な生き物の塊」が通過

 大きな揺れが収まるとすぐ、小学4年の次女(10)を迎えに、車で高校3年の長女(17)と東六郷小に行きました。そこで津波が来ると聞き、次女に学校で待つよう言って、義父母を連れに長女と家に戻りました。

 必要な物を車に詰め終えてトランクを閉めたとき、義父が「もう津波来た!」と叫びました。地震の約30分後でした。田んぼの方向を見ると、遠くの松林がバリバリと押し流されるのが見えました。

 車で逃げても間に合わないと思い、とっさに家の2階に上がりました。ベランダから見ると、高さ6、7メートルほどもある黒い壁のようなものが家々を壊し、すさまじい勢いで迫ってきました。

 巨大な生き物のような塊が通り過ぎると、辺りは一面海になりました。壊れた家や方向指示器が付いたままの車が流され、「助けて」という声も聞こえました。

 波の勢いが20分ほどで収まると、2階建ての家は所々にしか残っていませんでした。水深は1.5メートルほどで、その後も水面は何度か膨らむように上下しました。翌日水が引き、夫、次女と無事再会できました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の6月12日掲載版。犬がほえる先を見ると津波が。急いで学校の体育館の人たちとともに2階へ避難し難を逃れた体験談である→map

<6>ほえ続ける犬、先には・・・東六郷小  <6月12日 河北新報>

 ほえ続ける犬、先には黒い帯と白い煙

 私たち家族を津波から救ってくれたのは、1匹の犬でした。

 地震の後、避難先の東六郷小(仙台市若林区)に着くと、茶色の犬がほえながら走ってました。シバイヌでしょうか。ほえている先を何気なしに見ると、黒い帯と白い煙が広がっていました。津波でした。

 急いで妻と娘が避難している体育館に走りました。学校にいる小学生の孫の名前を叫びました。「美咲、津波が来ているぞー」。避難していた児童や住民約100人は、私の声に反応して校舎2階に向かいました。私も孫2人を抱え、妻の背中を押し、階段を上りました。娘ともう1人の孫も無事、2階に移ることができました。

 その後、体育館と校舎1階は浸水。机や椅子が、ぷかぷか浮いていました。あのまま体育館にいたら助からなかったと思います。

 学校に着くのが少し早かったら、津波は校舎に遮られ、見えなかったかもしれません。遅かったら、濁流にのまれたでしょう。運が良かった。でも何より、あの犬が「恩人」です。

 残念なのは、犬も飼い主も無事だったか分からないこと。できることなら、もう一度会いたい。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の6月20日掲載版。走って逃げたが津波に追いつかれ、思わず電柱につかまって7時間も耐えたという体験談である→map

<7>7時間、電柱に・若林区二木山王  <6月20日 河北新報>

 7時間、電柱にしがみつき

 電柱にしがみついているのは私です。7時間ほどこの状態が続き、「もう駄目だ」と死を意識したこともありました。

 地震の時はテレビを見ていました。近所にいる叔母の様子を見に行き、会えずに戻ると、妻(59)が「津波が来る」と叫びました。家の外に出て、バス通りを2人で走ると、下が黒く、上から白いしぶきを上げた津波が来るのが見えました。

 妻は何とか民家の2階に上げてもらうことができましたが、私は足がついていかず、津波に追い付かれてしまいました。思わず近くにあった電柱につかまりました。

 水が増えて体が浮いたので、電柱の高い所に登ることができました。目の前に流されてきたビニールハウスが壁となり、水の勢いを止めてくれたのが幸いでした。

 3時間ほどすると、松の木が流れてきました。これに座るような形で、電柱のそばで水が引くのを待ちました。寒さで震えが止まりませんでした。それでも眠気に襲われました。「大丈夫かー」と妻たちが声を掛け続けてくれなかったら、生きていられたかどうか。

 顎の辺りまで引いた水の中をごみをかき分けて進み、妻がいる民家の2階にたどり着いたのは午後11時ごろでした。
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河北新報社の“私が見た大津波”の7月16日掲載版。車を運転中に襲ってくる津波を目撃し、渋滞中の県道からたまたま内陸への道に右折でき、難を逃れたという体験談である→map

<8>県道の車のみ込む津波・若林区の県道 <7月16日 河北新報>

 2メートルの波、県道の車のみ込む

 地震発生後、車に乗り、仙台港近くの取引先から白石市の会社に戻る途中で、津波に遭いました。場所は仙台市若林区荒浜の県道塩釜亘理線。海側の約200メートル先に真っ黒い煙のようなものが見え、最初は火事だと思いました。

 でもよく見たら、黒いものは帯状に広がり、丸太や屋根、がれきなどが巻き上げられていて、津波だと分かりました。津波は田んぼの中を時速30~40キロくらいの速さで襲ってきました。

 県道は渋滞でした。たまたま内陸部に向かうあぜ道があり、ハンドルを切りました。十数秒後にバックミラーで確認すると、高さ2メートルくらいの津波が県道の車をのみ込みました。車が波に乗り、サーフィンをしているような状態でした。

 津波の直前、避難を呼び掛ける防災広報が聞こえました。でも、県道沿いのコンビニエンスストアには10人弱の客が残ったまま。逃げる途中、海の方に行く7、8台の車とすれ違いました。手でバツ印を示したのですが、行ってしまいました。

 私は仙台東部道路の下を抜け、国道4号から自宅に戻りました。当時は逃げることで必死でした。後でテレビで津波の映像を見て、初めて恐怖を感じました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の7月19日掲載版。津波に驚いてマイカーで逃げたが津波に木の葉のように流された後、何とか車外へ出て助かったという体験談である→map

<9>車内に海水・宮城野区の仙台港  <7月19日 河北新報>

 車内に海水、ガラス蹴破り外へ

 仙台市宮城野区の仙台港で荷降ろしを終え、仙台港中央公園で休憩していたとき、地震に遭いました。

 会社が入っている仙台港運送事業協同組合に戻り、トラックを避難させようとしたら、50メートル先の海側にあるプレハブの建物が津波で流されるのが見えました。

 驚いてマイカーに乗って逃げましたが、近くの交差点で左側から津波が来るのが目に入りました。津波は灰色で高さは2メートル近く。大型トラックのようでした。

 Uターンすると、すぐに波に襲われました。川に浮かんだ木の葉のように流され、あちこち衝突し、街路樹にぶつかって止まりました。

 ドアガラスの割れ目から車内に海水が入ってきたときは「もう駄目だ」と思いました。後部座席に移って、右側のガラスを蹴破り、何とか外に出ることができました。

 車外に出た後、街路樹に登りました。同じ木に登った老夫婦や、近くの鉄塔に上がった同僚と励まし合いながら波が引くのを待ちました。写真はそのときに撮りました。

 会社に戻れたのは、約2時間後。会社の2階で一夜を過ごしました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の8月25日掲載版。七北田川河口から車で避難し、福田橋手前で車を捨てて避難した3階から川幅いっぱいに逆流してきた津波を目撃した→map

<10>川幅いっぱい濁流・宮城野区福田橋 <8月25日 河北新報>

 川幅いっぱい、階段状の濁流へ

 仙台市宮城野区の蒲生干潟でアサリ採りをしていたとき、大きな揺れに襲われました。干潮で水深は10センチほどでしたが、揺れの後半に液状化現象が起きました。足元から真っ黒い水が湧き出し、噴水の上に立っているようでした。砂の中から見たこともない貝やシャコエビのような生物が噴き出しました。

 あっという間に水かさは約30センチに増し、黒い水の中を足元を探りながら引き上げる途中、七北田川の河口付近で潮がザーッと音を立てて引くのが見えました。20分後に車に着き、ラジオを聞いて初めて大津波警報が出ていることを知りました。

 車で避難しましたが、渋滞がひどく、細い脇道を通ってやっと国道45号に出ました。国道も渋滞中で梅田川の手前に差し掛かったとき、沿道のビルから「上がれ!」と大声で呼ばれ、車を乗り捨てて3階に上りました。

 間もなく、コハクチョウが数羽、異様な鳴き声で上空を飛び回っていると思ったら、黒い階段状の水が、壁のように川幅いっぱいに広がり、逆流してきました。濁流は橋のすぐ下まで迫り、電車のような勢いでした。

 地震から約1時間たっていました。地震直後、津波のことは頭になく、ラジオに助けられました。
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