証言の目撃地点マップは以下のとおり
多賀城市内での死者数は188人、行方不明者1名(10月21日現在)という大きな被害となった。市街地の中心部にあるJR仙石線多賀城駅が仙台港からの最短距離で2.5km、国道45号線までが同1.6km、被害者が多かった産業道路までは1km以内となるエリアもあり、意外にも海に近い街であったことを大震災後に気付かされた。津波に遭った方の以下の証言も「まさか多賀城に津波は来ないだろう」との認識だったことが分かる。
多賀城市内での津波証言記事は3月18日、読売新聞社が最初に報じた。18時間も冷たい水につかりながらトレーラーのワイヤにしがみついて生還をはたした福島県南相馬市の運送会社員の証言だった→map
<1>大津波から生還・多賀城市仙台港近く 【3月18日 読売新聞】
大津波から生還、その後原発から退避…「でも生きる」
東日本巨大地震で、宮城県多賀城市内で大津波に襲われながら、生還した男性がいた。
福島県南相馬市の運送会社員(40)。ワイヤにしがみついて津波の衝撃に耐え、18時間も冷たい水につかりながら助かった。しかし、ようやく戻った自宅で待っていたのは、東京電力福島第一原子力発電所のトラブルによる避難生活だった。次々に降りかかる災難。「津波と原発の二重苦だ。それでも生きていかなければ」。会社員は、そう心に決めている。
「ゴー」。11日午後3時20分頃、仙台港で、運んできた荷物をトレーラーから下ろした直後、会社員の耳に地鳴りのような音が響いた。海の方を振り返ると、数百メートル先に津波が見える。高さ約10メートル、壁のような波の上で、コンテナや車がクルクルと回転していた。
「少しでも高いところに逃げないと」。とっさに、近くに並んで止まっていたトレーラーの中で一番高い荷台に飛び乗った。運転席近くに張ってあった鉄製ワイヤにしがみつく。すぐにたたきつけるような波が襲ってきた。「ダメかもしれない」。何度も流されそうになりながら、ちぎれそうになる指に力を込めて体を支えた。
「助けてくれー」。隣のトレーラーが横転し、荷台にいた同僚が叫び声を上げながら水にのみ込まれた。津波が過ぎ去っても、首から下は水につかったまま。周りを見渡すと、周囲の建物は消え、残骸となった立体駐車場だけが残っていた。
日が暮れた。上空から自衛隊のヘリコプターのサーチライトが付近を照らす。凍えて体に力が入らない。何とか片手を振ったが、気付いてもらえない。余震の度に水面が揺れ、近くで起きたコンビナート火災の「ボン」という不気味な音が暗闇に響いていた。
その時だった。「死ぬんじゃねえぞー」。流されたはずの同僚の声が遠くで聞こえた。同僚は救助され、少し離れた倉庫2階に避難していた。「大丈夫だ」。大声で返す。寒さで意識を失いそうになるたび同僚の励ましの声が聞こえ、気持ちを奮い立たせた。「妻子を残して死ねない」。自分に言い聞かせ、耐えた。
長い夜が明けると、少しずつ水が引いていった。午前10時頃、荷台から下り、水の中をがれきに足を取られながら40分かけて移動し、同僚らのいる倉庫に引き上げられた。
その日、同僚の車で約4時間かけて南相馬市の会社にたどり着いた。心配して社に駆けつけていた妻(36)、長男(10)、長女(2)と抱き合った。自宅は無事という。涙が止まらなかった。「生きていることが自分でも信じられない。こんなことがあるんだと思った」
必死の思いで戻った我が家。だが、「奇跡の生還」から2日後の14日、福島第一原発3号機で爆発が起きた。足は凍傷になっており、医師からは入院を勧められたが、家族と避難することを決めた。「放射能が広がったら危ない。家族を守らないと」
福島市で避難所暮らしが始まった。原発の脅威は増すが、ガソリンが足りず移動手段もない。つらい生活は続く。だが、前を向いて生きようと決めている。「命があって家族といられればそれでいい。みんなで苦しみを乗り越えたい」
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河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
多賀城市内の証言記事は5月3日が最初である。車ごと流されながらも九死に一生を得たという壮絶な体験談である→map
<2>方々に流される車・産業道路近く <5月3日 河北新報>
流される車、四方八方から助け求める声
地震直後、大津波警報が発令されたため、軽乗用車で近所を回って、住民が残っていないかどうかを確認し、公園の防災無線で「高台に避難してください」と呼び掛けました。
地区の集会所に避難していた住民に「早く逃げろ」と言って車に乗り込んだ瞬間、津波に襲われました。車ごと約30メートルほど流され、何かに引っ掛かって止まりました。
車内の水位が上がってきたので、ドアを蹴り開け、車の屋根に逃げようとしました。2回、バランスを崩して濁流の中に転落。必死に車にしがみついて、3回目でやっと屋根に上がりました。
車の屋根に座っている間、目の前の産業道路(県道仙台塩釜線)を車が何台も流されていきました。四方八方から「助けてー」と叫ぶ声も聞こえましたが、大声で「助けに来るはずだから」と、声を掛けることしかできませんでした。
間もなく、横なぐりの雪が降ってきて、寒さで凍えました。午後7時すぎでしょうか。自衛隊のゴムボートに助けられました。九死に一生を得た思いです。→map
河北新報社の編集による“証言 3・11大震災”の5月13日掲載版。多賀城市の津波被害の全体像を津波に巻き込まれた人たちの証言を組み立てながら詳細に報道している →map
<3>証言/多賀城の津波 <5月13日 河北新報>
不意の濁流、幹線道襲う
東日本大震災で、多賀城市では津波による死者が185人に上り、塩釜市など近隣の港町を上回った。仙台港に近接し、
市中心部の海抜は5メートルに満たないが、海に面するのは砂押川の河口付近だけだ。「海の街」のイメージが薄い多賀
城市で、なぜこれほどの犠牲者が出たのか。住民らの証言からは、都市部の危うさが浮かび上がる。 (中村洋介、加藤伸一)
◇渋滞◇
「割り込みと思ったら、押し流されてきた車だった」
3月11日午後、多賀城市を横断する幹線道路、国道45号と県道仙台塩釜線(産業道路)では、大渋滞が起きていた。年度末の週末で交通量が多かった上、地震で信号が止まった。
車窓の外はマンションや大型店などの建造物だ。海は見えない。濁流は不意を突き、人と車がひしめく大動脈を襲った。市内の津波による死者は、国道45号と産業道路沿いに集中した。
多賀城市桜木の会社員新田恵さん(39)は地震後、家族が心配になり、車で自宅に向かった。国道45号に差し掛かると、渋滞に巻き込まれた。
動かない車の列に突然、タクシーが飛び込んできた。
「強引に割り込んできた、と思ったら、黒い水に押し流されてきた車両だった。すぐに自分の車も水に浮いた」と新田さんは振り返る。
周囲の数え切れない車が津波にのまれた。新田さんの車は、他の車とぶつかって回転。住宅の塀にぶつかって止まった。幸運にも運転席側が塀で、そこにはい上がることができた。
◇悲鳴◇
塀の下の水かさは次第に増し、濁流が目の前の交差点で大きな渦を巻いた。新田さんの車も渦の中に沈んだ。
「水没した国道45号のあちこちから『助けて』と悲鳴が聞こえたが、どうしようもなかった。暗くなるにつれて、何も聞こえなくなった」
想像さえできなかった惨劇と雪に震えていた午後9時ごろ、自衛隊のボートで塀の上から救出された。
新田さんは「生まれも育ちも多賀城だが、津波が来るという実感がなかった。多賀城も海沿いにあるという意識を持つべきだった」と話す。
◇伝う◇
多賀城市町前のすし店経営浦山淳さん(40)は地震後、余震を警戒し、店の前の産業道路に出た。「津波だ、早く上がって来い」。パチンコ店の立体駐車場の上階に集まった人たちが叫んだ。浦山さんも駆け上り、海側を見つめた。
「1キロ先の仙台港を超えた津波が、大型店など建物の間をはうようにして産業道路に迫った。建物を壊す感じではなく、道路伝いに流れる感じだった」
濁流は産業道路に押し寄せた。車から降りず、脇道などに車で逃げようとしている人が多かった。浦山さんは当時の状況を思い出し、嘆いた。
「何度も『車を捨てて逃げろ』と叫んだ。何台もの車が人が乗ったまま流された。水が引いた翌日以降、車の中で亡くなっている人がかなり見つかった」
都市的環境、被害を拡大/海が近くても工場・住宅で視界遮られる
住民の証言や痕跡によると、多賀城市を襲った津波は仙台港の高松埠頭(ふとう)や中野埠頭から北西方向になだれ込み、市内に入った。高さは約4メートル。仙台港に最も近い宮内地区では家屋がなぎ倒されるほどの威力だった。
多賀城市中心部に到達すると、住宅やマンション、商業施設の間の道路が水路代わりになり、広がった。国道45号や産業道路沿いには倒壊した建物がなく、津波の威力はやや弱まったとみられるが、高さは2メートルほどあった。建物の1階部分は浸水し、車が流された。
同時に、津波の一部は河口から砂押川をさかのぼった。陸上自衛隊多賀城駐屯地とその周辺を浸水させ、さらに上流の桜木2丁目周辺では土手を破壊。南側の市中心部に流れ込んだ。
市中心部は、仙台港側と砂押川側から入った二つの津波に南北から挟まれ、ほぼ全域が浸水。浸水面積は約660ヘクタールで市域の3分の1に上った。
多賀城市によると、渋滞の車が波にのまれた国道45号と産業道路のほか、仙台港背後地の工場がある宮内地区などでも死者が出た。市内の犠牲者185人のうち、市外に住む人が93人と半分以上を占めた。ほかの被災市町村にはない傾向だ。
市災害対策本部は「浸水域には通行量の多い幹線道路や大規模な工場がある。仙台など近隣に住む人が多賀城を通り掛かったり、勤め先の工場で仕事をしていた時に津波に襲われたケースが多い」と分析する。
都市部の環境が、被害を広げた要因になったという指摘も多い。海岸から約1キロの明月地区に住む斎藤冨男さん(67)が地震後、外に出ると、目前に津波が迫っていた。慌てて向かいのマンションに駆け上がって助かった。
斎藤さんは「海が近くても工場や住宅に囲まれ、海への視界は遮られている。津波は建物の間から突然、姿を現した。気付いた時には目の前で、逃げられなかった人もいたはずだ」と語った。
住民、避難行動に影響
◇ハザードマップ、浸水域想定違い/防災広報装置、全てダウン◇
多賀城市は2009年、「洪水・津波ハザードマップ」を作製し、市内の約2万4300世帯に配布した。マップでは、津波は仙台港の高松埠頭付近と砂押川から侵入し、仙台港周辺と河口のごく一部が浸水すると想定していた。
東日本大震災の津波は侵入域こそ想定通りだったが、浸水域は全く違った。
市中心部で、浸水が想定されていなかった八幡地区の行政区長鈴木邦彦さん(67)は「大津波警報を聞いても不安には思わなかった。津波が仙台港を超えても、ここまでは来ないと信じていた」と言う。
津波の襲来も十分に伝わらなかった。
市災害対策本部によると、3月11日午後2時46分の地震発生から約15分後、市内13カ所に設置していた防災広報装置のうち9カ所が機能停止に陥り、午後4時半すぎには全てダウンした。
防災広報装置は電話回線を使っていたため、地震で通信不能になった。マイクやアンプが内蔵された操作盤は高さ1.5メートルに置かれ、津波で海水に漬かった。
市災害対策本部は「災害の連絡機能も含め、防災計画を見直さなければならない」と語る。
砂押川をさかのぼった津波は、河口から約5キロ上流にある国府・多賀城跡の下の河原にも船を打ち上げた。
市にとっては、想定をはるかに超えた事態だったが、869年の貞観地震では、多賀城の正門近くまで津波が押し寄せたとの記録が残っていた。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月15日掲載版。勤務先の工場の3階に避難して津波の恐ろしさを味わい、さらにその夜、爆発炎上したコンビナートの炎に震えたという →map
<4>トラックやがれき次々・理研食品工場 <5月15日 河北新報>
トラックやがれき次々流れてきた
勤めている多賀城市宮内の理研食品本社工場で被災しました。大きな揺れの後、点呼で約300人近くいた全員の無事が確認されたころ、「高さ10メートルの津波が来そうだ。2階以上に避難して」と指示され、工場の3階に上がりました。
津波が来たのは、15分後です。仙台港方向から高さ3メートルほどの津波が押し寄せました。窓から隣の東洋刃物多賀城工場を見ると、屋根の近くまで水に漬かり、大型トラックやがれきが、次々と流されてきました。跡形もなく消えていた建物もありました。
あまりの光景に「まるで映画のようだ」と同僚と話しました。建物に車が当たる衝撃や1階部分がバキバキと壊れる音で、すぐに現実に引き戻されました。
午後5時には水が引き始めましたが、歩ける状態ではなく、工場で一夜を過ごしました。夜中に石油コンビナートの爆発音で目を覚ましました。外を見ると、火が間近に迫ってくるようで、恐怖を感じました。
翌朝は午前9時ごろに工場を出て、腰まで水に漬かって自宅に帰りました。家も家族も無事なのが救いでした。
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河北新報社の“私が見た大津波”の6月15日掲載版。「多賀城まで津波は来ないだろう」と電器店駐車場にいたところ、津波が見えたので車から飛び出したが津波にのまれてしまった →map
<5>抵抗できない絶望感・産業道路近く <6月15日 河北新報>
重くて、速くて、抵抗できない絶望感
友人と多賀城市の県道仙台塩釜線(産業道路)沿いの電器店にいたとき、地震に遭いました。産業道路は渋滞していたので、2人で駐車場の車の中にいました。
1時間ほどして、海の方向で車が流されているのが目に入り、焦りました。「多賀城まで津波は来ないだろう」と思っていたんです。
車を道路に出すと、海側からも前後からも水が来ました。友人と車から飛び出しましたが、すぐに津波にのまれました。ちょろちょろと見えた水が、まばたきする間に、一気に増えたんです。
水は重く、速くて、抵抗できません。友人を見失いました。「もう終わり」と絶望し、「まだ何もやっていない。生きたい」と強く思いました。
運よく、ゲーム店の入り口に引っ掛かり、第2波で店内に流されました。高い位置にギャラリーがあり、ゲーム機などを足場によじ登りました。上がれずにいた別の男性1人を、上にいた店員と2人がかりで引き上げました。必死でした。
その後は、とにかく寒かった。カーテンを破って体に巻き、皆で寄り添いました。
友人は、歩道橋に流れ着いて無事でした。→map
河北新報社の“私が見た大津波”の7月1日掲載版。勤務先から自宅に向うが国道45号の渋滞にはまったところへ津波が来てしまい、車外へ脱出して車の屋根の上で必死にこらえたという →map
<6>濁流から生還・国道45号にて <7月1日 河北新報>
濁流から生還、息子と翌朝再会
多賀城市八幡の会社で勤務中に大きな揺れに襲われました。塩釜市の保育所に預けている2歳の子どもが心配になり、先輩社員を送りがてら、帰宅することにしました。
国道45号は渋滞。何とか車を乗り入れると、多くの人が歩道橋に駆け上がっていました。歩道橋から「津波が来る 高いところに逃げろ」と叫ぶ声が聞こえました。
よく見ると、前後から囲むように真っ黒な津波が押し寄せて来ました。まずいと思いながら渋滞の列を縫うように走るうちに、車内に水が入り、腰まで漬かりました。先輩の「車の上に逃げるぞ」との声に従い、手を借りて2人で何とか車の屋根に上りました。
必死で車上のルーフキャリアを握りました。どんどん水位が高くなってきます。写真のように目の前は真っ黒な濁流。しゃがんだ腰近くまで水が来たところで流れが収まり、ようやく助かったと思いました。周囲を見ると、同じように車の屋根や電柱にしがみついている人が大勢いました。
午後9時近くに自衛隊のボートに救助され、多賀城市の文化センターで一夜を過ごしました。翌朝、保育所近くの避難所に行くと、息子が笑顔で駆け寄って来たのでほっとしました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の9月25日掲載版。つえをついて歩く私を車に乗せてくれたが、その車が津波に流されてしまい、脱出はできたものの一時は黒茶色の油臭い水に首まで漬かることになってしまった →map
<7>浮いた車から脱出・国道45号の車の中 <9月25日 河北新報>
浮いた車から脱出、首まで油臭い水
石巻市の実家からJR仙石線で帰る途中、多賀城駅手前で地震に遭いました。駅を出て、バス停を探して国道45号を歩き始めると、つえをついて歩く足の悪い私を見かねてか、自転車に乗った30代の女性が通り掛かった車を止め、押し込むように乗せてくれました。
運転していたのは30代の男性。走りだしてすぐに、道路脇の建物から人が逃げるように飛び出してきました。電線が波打ち、電柱が揺れています。
隣の車線を走っていた車がドアにぶつかったと思ったら、窓にバシャーッと水が来ました。
「津波じゃないか」。そう思うと同時に、車体が浮きました。ほかの車とぶつかりながら、仙石線ののり面まで流されました。流れが静かになったときに、後ろの窓を破り、男性と2人で脱出しました。
黒茶色の油臭い水に首まで漬かり、最初は2人でタイヤにつかまっていました。手足が冷たくなったので、折り重なった車に乗って、車内で寒さをしのぎました。
夜に水位が下がり、近くのカラオケボックスに避難しました。従業員が食べ物や乾いた服をくれました。翌日、4時間かけて家に着きました。
人の善意で九死に一生を得ました。最初に自転車の女性が声を掛けてくれなければ、助からなかった。捜してお礼を言いたいです。→map
河北新報社の“私が見た大津波”の10月27日掲載版。社屋の5階に避難し製油所のタンクを次々倒しながら押し寄せてくる津波を目撃した。夜になって製油所が爆発炎上したため胸まで水に漬かりながら避難したという →map
<8>製油所のタンク倒れる・フクダ電子 <10月27日 河北新報>
製油所のタンク、次々倒され黒い水
多賀城市栄のフクダ電子で勤務中に被災しました。いったん駐車場に避難した後、社屋の5階へ移動しました。
ラジオの津波情報を聞いて、近くの企業の社員も避難してきました。会社は仙台港から1キロほど離れています。この時点では、津波が来るとは思いませんでした。
地震発生から約40分後、地響きのような音とともに、製油所のタンクが次々と倒され、黒い水が流れ込んできました。
あっという間に水かさと勢いが増し、大型トラックやタンクローリーが、おもちゃのように流されてきました。車の上には逃げ遅れた人が見えました。あまりの光景で現実とは思えませんでした。
5階に避難した約200人とともに、夜を迎えました。午後10時ごろ、製油所が爆発炎上しました。延焼の不安と恐怖から、フロアは騒然としました。私を含め十数人が胸まで水に漬かりながら、真っ暗な中、避難を始めました。
水は冷たく、すぐに足の感覚がなくなりました。がれきと車に行く手を阻まれ、避難を諦めて近くの事業所の2階に身を寄せました。ぬれた体で朝まで過ごしましたが、そのときの寒さは今も忘れません。 →map
河北新報社の“私が見た大津波”の10月31日掲載版。地震後、自らラジオや無線の情報を得たことで大津波警報を知り、みやぎ生協大代店屋上に移動して津波を目撃した →map
<9>濁流は静かな暴れ馬・生協店屋上 <10月31日 河北新報>
濁流は静かな暴れ馬のようだった
長く激しい揺れに、これはただごとではない、スマトラ沖地震と同じことが起きるのではないかと直感しました。
分団長を務める消防団のポンプ車庫に急行し、ラジオや無線に耳を傾けました。大津波警報を聞き、みやぎ生協大代店の屋上に移りました。雪が舞う中、300人以上が避難してきたそうです。
午後3時50分ごろ、店のそばを流れる貞山運河に、仙台港方面から真っ黒な水が押し寄せてくるのが見えました。時速は25キロくらいでしょうか。水かさがどんどん増え、どこまで勢いづくのか不安になりました。
不思議なことに、音は聞こえませんでした。船が波にもまれてきしむ音がするだけ。濁流は静かな暴れ馬のようでした。
51年前、チリ地震津波でも大代に押し寄せる波を目撃しました。小型船が激しくぶつかり合っていたのが印象に残っています。その体験から、津波への備えは常に意識してきたつもりです。
3月11日、妹は自宅に戻る途中、車ごと流されて命を落としました。津波の際、車で避難してはいけません。北海道の奥尻島では、裏山に駆け上って逃げた人が助かりました。奥尻の教訓をもっと話しておけばよかったと、悔いが残ります。
河北新報社の“私が見た大津波”の12月6日掲載版。庭の植木が車のワイパーのように左右に大きく揺れていた地震が収まった後、カメラを持って貞山掘の様子を見に行ったという →map
<10>津波、貞山堀に逆流・生協店屋上 <12月6日 河北新報>
水しぶき上げ、貞山堀に逆流
自宅で昼寝をしていて、地震の揺れで目が覚めました。戸を開けて避難しようとしましたが、あまりの揺れで外に出ることができませんでした。庭の植木が車のワイパーのように左右に大きく揺れていたのが忘れられません。
揺れが収まった後、カメラを持って、貞山堀の様子を見に行きました。堀の水位がどんどん下がるのをみて、これは大変なことが起きていると思いました。
午後3時50分ごろでした。堀の様子は一変しました。真っ黒な水が、ものすごいスピードでさかのぼってきたのです。急激に水位も上がり、堀に架かる橋に届くまであっという間でした。
停泊中のボートや車が流されてきました。堀からあふれた水が、周辺の住宅地に流れ出しました。濁流の水の音のほかに、何かが壊れるような音や、地面が揺れるような音も聞きました。
午後5時近くになると、津波が来た時とは映像を逆回ししたように、急速に水が引きはじめました。住宅地に入った大量の水が、水しぶきを上げながら堀に逆流しました。押し波だけでなく、引き波の勢いにも驚きました。→map