証言の目撃地点マップは以下のとおり
宮城県最南端の町、山元町沿岸も大津波で県道38号線の海側が壊滅しただけでなく、JR常磐線を軽々と乗り越え、山元町内では最大で海岸から3.6kmまで津波が到達した。坂元地区では国道6号線を約500mも突破して山側へ到達している。また、海岸から約1.6kmの山下駅周辺には流されずに残った家が多いのに対し、常磐線の位置が同1.2km以下の新浜地区以南は、ほとんど家が残っていない。10月7日現在、山元町の死者は614人、行方不明者は4人とある。海岸から近いエリアの居住者が少ない山元町としては甚大な被害だった。近年、三陸沿岸で大きな被害を受けた津波でも山元町は全く被害がなかったことで、住民が「ここは大丈夫」と油断したことが犠牲者を増やしてしまった。
河北新報社は3月18日、51人の園児が乗ったふじ幼稚園の送迎バスが津波にのまれた悲劇を報じた。この記事は「大津波の悲劇」のページにも載せた→map
<1>幼稚園バス濁流に・ふじ幼稚園 <3月18日 河北新報>
幼稚園バス濁流に
園児ら5人死亡4人不明
宮城県山元町の私立ふじ幼稚園の園児51人が、幼稚園の送迎バスごと津波に巻き込まれた。園児43人は救出されたものの、4人が死亡し、4人が行方不明。職員1人も亡くなった。
幼稚園によると、11日の地震直後、建物の中は危ないと、付き添いの職員とともに園児らは大小2台のバスに分乗。園庭に避難していたところを、津波が襲った。
園児33人が乗った大型バスは園内のブロック塀に引っ掛かって止まり、18人がいた小型バスは園から数百メートル離れた民家まで流された。
濁流にのまれた車内は、天井近くまで水位が上がったという。職員はドアを開け、バスの屋根に園児らを引き上げた。
大型バスにいた職員の一人は「バスの中で、浮いている子を外に出すので精いっぱい。それでも、手で水中を探り、感触のあった2人をリュックや服をつかんで外に出した」と振り返る。
波が引いたのを見て、それぞれのバスから、園舎や民家の2階に逃れた。だが、大型バスでは園児7人が不明となり、17日までに3人が遺体で発見された。4人はまだ見つかっていない。小型バスでは園児1人と、職員中曽順子さん(49)が絶命した。
「先生たちは懸命に救助に当たったが、全員は助けられなかった」。大切な園児と職員を奪われた鈴木信子園長(52)。「親御さんに大変申し訳ない」と肩を震わせた。 →map
河北新報社の“私が見た大津波”の5月1日掲載版。常磐線山下駅前に3階建ての自宅ビルを構える主人が屋上に上って迫り来る大津波を目撃していた→map
<2>白いしぶきが花火のよう・山下駅前 <5月1日 河北新報>
白いしぶきが花火のように舞い上がった
地震発生から、20分もたっていませんでした。JR常磐線山下駅前にある鉄骨3階の自宅ビル屋上から、迫ってくる津波が見えました。
最初は海岸沿いの松林より3~5メートルも高く見え、色は青から黒へと変化していきました。波が防波堤に当たったのか、白いしぶきが、打ち上げ花火のように17、18メートルの高さまで舞い上がったのを覚えています。
海から自宅までは約700メートル離れていますが、津波は新幹線が突っ込んでくるようなスピードで押し寄せてきました。幼いころ、「津波は海が膨れるんだ」と聞かされていましたが、今回は様子が全く違いました。
自宅周辺もどんどん水かさが上がり、一面が水没しました。流されてきた車や海岸林が家などとぶつかって、バリバリと大きな音をたてました。駅前の案内板にしがみついていた人もいました。
1週間ほどして津波が引いた後、近くの集落を見て回りました。まるで別の国に来たようで、ショックでした。開墾して広げた田んぼやスイカ畑は海水に漬かって、全部駄目になりました。
〔上記本文では佐山さんが自宅位置を海から約700mと書かれていますが、地図で検証してみると約1600mです。また、常磐線より海側を通る県道38号は山下駅付近では海から約900mに位置します。山下駅周辺の多くの家が1階天井近くまで水没したものの流されずに残ったのは、海からの距離によるものと思われます〕→map
河北新報社の“私が見た大津波”の5月4日掲載版。「津波だ。2階さ上がれ」との夫の声がして2階へ避難し、さらに隣の物置3階に上がろうとしたが波にのまれ流されてしまったという体験談。
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<3>水の中で「苦しい」・山元町坂元 <5月4日 河北新報>
水の中で「苦しい」
夫が引き上げてくれた
今思うと、津波を目撃する少し前に聞いた「ドドドッ、バリバリッ」という雷のようなごう音が、第1波で防波堤が壊れた瞬間だったのかもしれません。
大きな揺れで外に飛び出した後、家に戻って食器や家具を片付け始めると、夫(67)が慌てた様子で駆け込んできました。「津波だ。2階さ上がれ」。
屋外で作業をしていた夫は、南の方角の福島県沖から、押し寄せる津波に気付いたのです。
テラスからは、津波に運ばれた大量の屋根やがれきが見えました。身の危険を感じて、母屋2階から隣の物置3階に上がろうとした時でした。階段の手すりをつかみ損ねて波にのまれました。
水の中で「苦しい」と思ったのを覚えています。防災ずきんが浮輪代わりになったのか、水面に浮いたところを夫が引き上げてくれました。
2人で物置ごと2キロ近く流され、物置内のがれきの隙間を見つけて一夜を明かしました。とにかく寒くて、夫と一晩中抱き合ってしのぎました。
大きな地震だったのに、近所のだれも津波を警戒していませんでした。とにかく高い所に逃げることを学びました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月24日掲載版。沿岸のイチゴ畑がある自宅から坂元中学校屋上に避難してものすごく速く迫ってくる津波、家を持ち去る引き波の様子を目撃した証言である→map
<4>海岸林や水門のみ込む・坂元中学校 <5月24日 河北新報>
黒い壁、海岸林や水門のみ込む
避難先の坂元中の屋上で、津波の第2波を見ました。防潮堤から2キロほど離れた国道6号まで5、6秒くらいで到達したようで、ものすごく速かったのを覚えています。
津波の色は黒に近いような緑色。壁のように高い波が、20メートル近くもある海岸林や、水門をなめるようにのみ込んでいきました。引き波で家などが流されていくとき、坂元中屋上にいた200人近くの住民からは悲鳴や泣き声が上がりました。
震災から3日目、自宅まで歩いて行きました。海から約200メートルの自宅は、土台を残して跡形もなくなり、近くのイチゴ栽培用ハウス9棟もすべて流されました。帰り道、悔しくて悔しくて、涙が止まりませんでした。
津波に襲われた3月11日は、イチゴの最盛期を間近に控えた時期。避難所で出荷できなかったイチゴがデザートとして出たことがありました。本当なら今ごろは忙しいはずだったのにと思うと、再び悔しさがこみ上げました。家も土地も失いました。もう浜には住みたくありません。農業を続けるにしても、住むのは山手側がいい。自分の身は自分で守るしかないと思っています→map
河北新報社の“私が見た大津波”の7月3日掲載版。JR常磐線山下駅にほど近い線路より陸側にある自宅で地震に遭い、予想高さ6mの津波警報を聞きながら大したことはないだろうと避難せずにいたところ、家の裏から黒い波が・・・→map
<5>隣家脇から押し寄せた・山寺北坪路 <7月3日 河北新報>
隣家脇から渦巻き、押し寄せた
腹痛で休暇を取り、自宅で休んでいたところ、強い揺れに襲われました。家具が倒れないように必死で押さえました。
揺れが収まってからは、周囲を見ながら片付けをしていました。テレビでは、大津波警報が発令され、予想は6メートルと報じていました。消防車が避難指示を出していました。猛スピードで走り去る車も見ました。自宅は海から1.5キロほど離れていたので、それでも津波はJR常磐線を越えることはない、来ても大したことはないだろうと楽観視していました。
ところが、間もなく家の裏から「ゴー」と、聞いたこともない音がしました。黒い波が、隣家の脇から渦を巻いて押し寄せてきたのです。車はありましたが、逃げられないと判断し、自宅1階の台所にいた妻と2階に逃げ込みました。
2階の窓から外を見ると、波が先端から土煙を上げながら、ものすごい勢いで流れてきました。何かが家にぶつかる音が響き、一時は覚悟を決めました。
2階に水が入る寸前で勢いが止まり、ようやく助かったと思いました。手前に見えるのが自宅カーポートの屋根で、奥に見える平屋は実家です。水没しましたが、家族は留守で無事でした。
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河北新報社の“私が見た大津波”の10月17日掲載版。山下駅に近い陸側の自宅で避難放送を聞いたものの、ここまで津波が来ることはないだろうと逃げずにいた。しかし泥水のような波が押し寄せ、慌てて2階へ。近くのふじ幼稚園からは助けを求めて泣き叫ぶ園児の声が・・・ →map
<6>車と倒木が競走・山下駅付近 <10月17日 河北新報>
車と倒木競走するように流れる
大きな揺れの後、避難を呼び掛ける放送が聞こえました。それでも、自宅まで津波が来ることはないだろうと思って、倒れた家財道具を片付けていました。山元町に生まれ育って80年になりますが、津波は見たこともなければ、聞いたことも無かったからです。
しかし、自宅の前を泥水のような波が、海の方からうねりながら流れてきました。慌てて2階に駆け上がりました。
南側のベランダから外を見ると、波はごーっという滝のような音を上げながら、勢いが増したようでした。先に流れた波に、後から来た波が覆いかぶさり、家の周りの水位は盛り上がるように、どんどん上昇しました。
自宅前にある平屋の日本舞踊の稽古場はあっという間に、屋根の近くまで水に漬かり、すぐ横を自動車や倒木が競走するように流れて行きました。私は孤島にでもいるような気分になり、自然の猛威に体の震えが止まりませんでした。
近くの幼稚園からは、助けを求めて泣き叫ぶ、園児の声が聞こえてきました。私は波が早く収まるように、祈ることしかできませんでした。園児のことが心配で、全く眠れないまま、翌朝を迎えました。→map