証言の目撃地点マップは以下のとおり


 石巻市は石巻漁港を擁する市中心部(人口11万人余り)の高台を除くほぼ全域が津波に襲われたことで、このエリアだけで2038人が死亡し、377人の行方不明者を出すという東日本大震災で最大の被害を受けた。石巻市はこの地区の他にも、雄勝、牡鹿、河北、北上でも大きな被害を被り、全体(全人口約16万2千人)ではなんと死者数:3,282名、不明者:699人(11月17日現在)という甚大な被害状況を呈している。これだけの人的被害を受けた各地域ともに建物の基礎だけが残る壊滅地帯が広がっている。
 その石巻市での最初の津波証言記事は3月15日、河北新報石巻総局から取材で石巻市寄磯の宮城県漁協寄磯支所に居た記者から発信された→map

<1>目前で防波堤崩落 牡鹿・寄磯漁港 <3月15日 河北新報>

 目前で防波堤崩落

 地響きとともに建物が激しく揺れた。部屋に居た漁師に遅れて外に飛び出した。岩が崩れ落ち、女性が泣き叫ぶ。一瞬のためらいの後、置き忘れたカメラとノートを取りに戻った。
 牡鹿半島から太平洋に突き出た石巻市寄磯の宮城県漁協寄磯支所。サイレンが鳴る。漁師たちが船のエンジンを吹かして全速で港を次々と出て行った。
 濁流が岸壁を乗り越えた。20㍍ほど高い場所に車を動かして沖を見た。渦を巻き、船がかじを取られて漂流していた。
 急斜面を車で登り、山の上の小学校に止めた。亀裂が入った校庭の端から海を見ると、金華山と半島の間に白い帯が見えた。崖の下で車がぶつかって流され始めた。
 白い帯は黒い固まりになってごう音とともに何度も襲ってきた。斜面に張り付く家々が沖に流れていく。「なにもかもなぐなったあ」と涙の男性。防波堤がスローモーションのように崩れ落ちた。
 地震から2時間後、小学校を後にした。ショックのせいか、やたらにのどが渇く。
 東北電力女川原発のそばの原子力PRセンターに寄った。原発作業員ら十数人が集まっていた。原子炉建屋内で作業中だった石巻市の男性(49)は「装置から水があふれて砂埃がもうもうと上がる中、避難した」と話した。車で石巻には帰れない。
 午後5時過ぎ、近くの鮫浦地区の区長がセンターに助けを求めに来た。一緒に集落まで戻ると、跡形もなくなった集落が薄闇に浮かんでいた。「(1933年)昭和三陸津波で波をかぶらなかった場所に集落を造ったのに」と84歳の女性。高校を卒業したての女性(17)は「小学6年の妹と石巻の造船所で働く兄と連絡が付かない」と声を震わせた。みんな着の身着のままだ。
 午後9時すぎ、女川原発のバス乗り、原発構内の避難所に移った。12日未明、電気がともり、暖房が入った。暖かい食事も出た。水浸しになって救助を待つ人のことを思うと申し訳なかった。
 12日早朝から周辺の住民が避難してきた。「木にしがみついて生き延びた。ばあさんは流されてしまった」「沖に逃げた船が何隻か波にのまれた」。津波の高さは20~30㍍に達したという。集落は全壊したが、行方不明者は住民の1~2割にととまったようだ。
 避難した子どもの表情に癒された。生後100日の女の子を抱っこして家族を思い出した。

 ◇歩き、車乗り継ぎ家へ◇

 13日午前5時半、原発を出て十数人と共に歩いて石巻に向った。ルートがかろうじて通じることは前日の下見で確認していた。
 原発から半島中央部の観光道コバルトラインまで残った家は1軒もなかった。毛布が掛けられた遺体に手を合わせる。石巻方面から救援に向う車が増え始めた。宮城県女川町の中心部まで数㌔の所でトラックの荷台に乗せてもらった。人の親切が身に染みた。
 町中心部は変わり果てていた。全てが破壊された。高台の病院にも水が流れ込んだ。「近所の20人以上と連絡がつかない。助かったのは奇跡」と63歳の女性は言う。
 車を何台も乗り継いで石巻市の自宅に戻ったのは正午前。自転車に乗り、JR石巻駅近くにある勤め先の石巻総局に向った。ひざ下まで水浸しになって線路を歩き、1階が泥に埋まった会社に着いた。→map


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河北新報社は3月16日、「避難所 いま」のコーナーで、校舎が津波に襲われ、火事も起きて全焼した石巻市門脇小学校の当日の様子とその後の避難生活に関する第一報を報じた→map

<2>間一髪津波脱出  石巻・門脇小   <3月16日 河北新報>

  間一髪津波脱出

 校舎が津波に襲われ、火事も起きて全焼した石巻市門脇小(児童300人)は多くの児童が石巻高など市内4カ所で避難所生活を送っている。ほとんどの児童は学校の誘導で高台に避難し、無事だった。地震発生2日後の13日、児童は別の場所に身を寄せた親らと再会した。
 鈴木洋子校長(60)によると、地震直後の津波警報を受け、下校した一部児童を除く約275人を誘導し、高台の日和山公園に避難させた。「ゴーという音がして、遠くを見ると住宅が流されていた」と振り返る。
 校舎には、学校に避難して来る住民のために佐藤裕一郎教頭(57)ら4人が残った。教頭の話では、津波が電柱をなぎ倒しながらすごい勢いで接近。住民約40人と校舎裏側から間一髪で脱出した。校舎に自動車がぶつかる音が響き、ガソリンに引火したとみられる火災が起きた。
 佐藤教頭と住民は公園で児童と合流し、数カ所の避難所に分かれて夜を過ごした。避難所生活が始まっても、すぐに保護者と会える児童ばかりではない。物資が不十分で不安を募らせる児童に担任が目を配った。

 ◇児童、親と抱き合う◇

 6年佐藤真歩さん(12)は一つ下の弟と石巻高に身を寄せた。避難生活の3日目、東松島市に避難した母陽子さん(46)が2人を捜し出し、再会して抱き合った。
 真歩さんは「昼間はみんながいて寂しくなかったが、夜は泣いた。母に会えた時はうれしかった」と声を詰まらせる。
 同小は、避難した全児童が親族と会えたことを確かめた。避難前に保護者に引き渡した児童ら9人の安否は確認できていない。
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石巻市日和幼稚園の送迎バスが津波にのまれた悲劇は、3月27日、河北新報社がまず報じた
以下の記事は「大津波の悲劇」のページにも掲載しています→map

<3>幼稚園バスに津波 地震後発車、のまれる<3月27日 河北新報>


 焼け焦げ横倒しになったワゴン車に菓子や花が添えられていた。がれきと化した石巻市門脇町。地震後、園児を自宅に帰そうとした幼稚園の送迎バスが津波にのみ込まれ、五人の幼い命が奪われた。「高台にある幼稚園に残っていれば助かったのになぜ…」。遺族はやるせなさを募らせている。

 亡くなったのは、同市日和が丘4丁目の私立「日和幼稚園」に通う4~6歳の男児1人、女児4人。
 斎藤紘一園長(66)らによると、11日の地震直後、亡くなった5人を含む12人を乗せワゴン車が園を出た。門脇町や南浜町方面に住む7人を門脇小で降ろした後、大津波警報に気づき園に引き返す途中、津波に巻き込まれた。
 園児は14日、変わり果てた姿でワゴン車の周囲で見つかった。保護者は焼け残った衣服などで子どもの身元を確認した。男性運転手は一命を取り留めた。同乗していた女性職員は今も行方不明。門脇小で降りた7人は無事が確認された。
 犠牲になった5人は大街道地区や蛇田地区に住んでいた。いつもは津波が直撃した南浜町、門脇町を通らないルートで送迎されていた。
 斎藤園長は「大きな地震が起きたら園にとどめるのが原則だ」としながらも「園庭に避難した子どもたちが不安がったり寒がったりしたので、親御さんの元に早く帰そうとした」とバスを動かした理由を語った。
 会社員の西城靖之さん(42)=同市大街道東1丁目=は次女の春音ちゃん(6)を失った。
 「子どもは大人を信じてバスに乗ったはず。それが地獄行きとは知らずに。誰かを責めても切なくなる。こういう悲劇があったことだけは記録に残し、教訓にしてほしい」
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河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
初回は今回の大震災で最も多くの犠牲者を出した石巻市から、門脇町居住者の証言だった→map

<4>、海沿いの家が迫ってきた・石巻港近く【4月12日 河北新報】

 電柱なぎ倒し、海沿いの家が迫ってきた

 石巻港から500メートルほど離れた機械器具製造会社の工場にいました。
 停電でラインが止まりサイレンが鳴った後、ふと海に目をやると、堤防の上に黒い壁のようなものが見えました。
 バリバリッという激しい音。津波でした。高さは7~8メートルはあったでしょう。濁流に流された海沿いの家が道路に押し出され、周囲の電柱をなぎ倒しながら波に乗るような形で迫ってきました。

 海と反対側の門脇小に向かって必死で走りました。校庭では津波が来ているのを知らずに歩いている人もいて、思わず「津波が来る、走れ!」と叫びました。

 校舎屋上に駆け上がると周囲で何度も爆発音が聞こえ、火災が起きていました。「ここも危ない」。その場にいた人たちと力を合わせ、教室から持ち出した教壇を、校舎2階の窓から裏の日和山の斜面に渡し、かろうじて逃げ延びました。

 山の上から見た市街地は黒い水に沈み、学校は煙の中。まるで地獄絵図でした。一歩間違えば命はなかった…。助かったのは、たまたま運が良かっただけです。
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河北新報社の“私が見た大津波”の4月15日掲載版。逃げた高台から見た湾内の大きな引き波と、そのあと襲ってきた津波の目撃談である→map

<5>音もなく引いた波・網地島   <4月15日 河北新報>

 音もなく引いた波、海の底が姿現す

 午後3時半ごろだったでしょうか。網地島の網地港を望む高台に避難して港を見ると、5、6分で港内の水が空になったんです。引き波でした。

 網地港の水深は5、6メートル。舟が次々と沖に持って行かれました。ロープが切れなかった舟はひっくり返りました。

 海の底はこげ茶色でした。ラクダのこぶのようなごつごつした岩があったのを覚えています。音は聞こえず、それが余計に気持ち悪かったです。

 「津波だーっ」。高台には20人ぐらいいて、誰かが叫びました。沖を見ると海が盛り上がっていました。あっという間でした。港の向こうにある田代島が見えなくなりました。港の防波堤が見えなくなりました。灯台も見えなくなりました。漁協の建物や民家が押し倒されました。

 網地島の海は透明度が自慢で、港にある網地白浜海水浴場をはじめ、いつも薄い青色や緑色に見えます。押し寄せた津波は黒ずんでいました。

 雪が降っていました。風も強かったと思います。寒さと津波の怖さでただ震えていました。地震から1週間は、怖くて港に近付けませんでした。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の4月21日掲載版。自宅1階に居て津波が玄関から入って来たが、幼子を抱えながら何とか脱出に成功したという体験談である→map

<6>玄関から大量の水・石巻市中屋敷一丁目 <4月21日 河北新報>

 生後1カ月の五男と自宅1階にいた時、津波に襲われました。寒くて部屋を閉め切っていたため、防災無線が聞こえなかったのです。

 地震で落ちた物を片付けていると、玄関の方から「ドドドッ」という大きな音が聞こえました。玄関を開けると、大量の水が入って来ました。居間に戻り、五男を抱いた瞬間、部屋が水でいっぱいになりました。

 体が浮き、首を水面に出し、右手で壁の通気口をつかみ、左手で五男を抱きました。あと少しで顔が天井に付く高さまで水位が上がり、「もう駄目だ」と思った時、水の流入が止まりました。五男は声も出さず、手をぎゅっと握り、じっと寒さに耐えていました。

 水が少し引けた時、水中に浮いていたイスをけって水をかき分け、階段から2階へ逃げました。

 「乳飲み子連れで避難所へ行っても大変」と思い、2階で3夜を過ごしました。加湿器の水を飲み、五男に母乳を与えました。水が引いた後、近くの青葉中に避難。前後して夫、長男、次男、三男、四男の家族全員の無事も確認できました。→map



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河北新報社の“私が見た大津波”の5月10日掲載版。車で自宅に戻る途中で津波に気付きバックで逃げた後、高台方向に走ったが渋滞のため車を捨てて助かったという体験談である→map

<7>家ぐらいもあるがれきの塊が・南浜町  <5月10日 河北新報>

 家同士ぶつかり、土煙とともに破裂音が

 地震の時は外出していました。海岸から約200メートルほどの自宅に戻りかけた時、津波が見えました。慌てて車に飛び乗り、バックで逆方面に逃げました。車から数十メートル先には、2階建ての家ぐらいもあるがれきの塊が、濁流とともに迫ってくる様子が見えました。

 津波の勢いで家同士がぶつかると土煙が上がり、バーンとかんしゃく玉が耳元で爆発するような破裂音がしました。「もう駄目だ。逃げ切れない」と思いました。しかし、ぶつかり合った家が、流れをせき止めるような形になったため、がれきが押し寄せてくる速度が鈍り、車を前進に切り替えることができました。

 南浜町、門脇町地区を通る県道に出ると、車が渋滞していました。反対車線を何百メートルか走った後、もう間に合わないと判断して横道に入り、車を捨てて、高台に駆け上がりました。

 津波は10メートルほど後ろに迫っていたはずです。逃げながら、数珠つなぎの車に声を掛けましたが、降りる人はいませんでした。

 高台に上ると、すぐ下のがれきの中から助けを呼ぶ声がしました。下半身が泥に埋まっている男子小学生を見つけ、近くに避難していた3人と協力して掘り出しました。一帯は間もなく、火事の炎に包まれました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月13日掲載版。北上川の堤防上を車で走行中に、河口付近から堤防の高さを越える津波を発見し、高台のにっこりパークへ避難しての目撃談である→map

<8>わずか8分間、集落越え住宅は粉々 <5月13日 河北新報>

 わずか8分間、集落越え住宅は粉々

 石巻市中心部で車を運転中に地震が起き、自宅のある北上町に帰ろうと、北上川の堤防上を走る国道398号を河口方面に向かいました。

 午後3時23分、第1波が30~40センチの高さで北上川を逆流していきました。この程度なら大丈夫と車を進めた直後、河口から約2キロの月浜第1水門前で、堤防より高い位置に漁船を発見。第2波が堤防を超えそうな水位まで迫っていたのです。慌てて高台にある複合運動施設「にっこりサンパーク」に上る市道にハンドルを切りました。

 高台から見下ろすと、川を逆流した津波が下流の集落を越え、自分が上ってきた市道下のトンネルからダムの放水のように噴き出していました。まもなく高さ15メートルほどの黒い波が堤防と水門を乗り越え、すでに満水状態だった支流の皿貝川を一瞬で越えて眼下の水田と住宅をのみ込みました。

 バリバリという音とともに、下流の住宅が続々と流されて市道を乗り越え、粉々にされました。第1波からわずか8分間の出来事でした。
 高台に逃げるのが少しでも遅ければ、自分も流されていました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の5月14日掲載版。車で自宅に戻る途中で津波に気付きバックで逃げた後、高台方向に走ったが渋滞のため車を捨てて助かったという体験談である→map

<9>山の陰から濁流・大川小付近    <5月14日 河北新報>

 山の陰から濁流急いでUターン

 仕事先から帰る途中に地震が起き、自宅に向かおうと、2トントラックを走らせました。新北上大橋を石巻市北上町側から釜谷側に渡った後に津波が橋に迫り、後続の車は引き返しました。

 そのまま釜谷の中心部を通りすぎたころ、200メートルほど先の山の陰から津波が見えました。泥色で住宅の2階くらいの高さだったと思います。濁流は家を丸ごと乗せて迫ってきました。

 「ためらったらのみ込まれる」。Uターンし、一気に釜谷を走り抜けて橋のたもとまで戻り、そのまま左折し石巻市雄勝町方面に車を進めました。後続の車はなかったので、集落を抜けて車で逃げられたのは自分が最後だったと思います。
 Uターンする時刻が数秒遅ければ津波と鉢合わせしていました。幸運なタイミングでした。雄勝町方面の峠の手前にトラックを止め、津波が6回押し寄せてくるのを見ました。

 当日の夜は車、翌12日は近くの集会所で過ごしました。仕事で雄勝町にいた妻や、津波の直撃を受けた自宅から避難した中学生の長女らと3日目に再会しました。
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河北新報社は大震災から約2ヵ月半後となる5月29日、石巻市内で大津波のうえに火災によって多くの惨劇を生んでしまった門脇町、南浜町のその時を“ドキュメント大震災”の中で伝えた→map

<10>濁流に炎、惨劇次々 門脇町、南浜町【5月29日 河北新報】

 廃虚の街 石巻・門脇町、南浜町地区

 宮城県石巻市沿岸部の門脇町・南浜町地区は、廃虚と化した。約1700世帯が住んでいた住宅街。大津波の襲来に、大規模な火災が追い打ちを掛けた。粉々に砕け散った家、焼け焦げてひしゃげた車…。確かにあった暮らしの残骸が、むごたらしく積み重なる。震災直後、この地区では生死が隣り合わせとなった惨劇が繰り広げられていた。

 ◇焼け死にたくない!◇

 燃え盛る家や車が、まるで生き物のように泳ぎ、自分を襲ってくるように見えた。
 古藤野正好さん(48)は地震後、石巻市内の勤務先から車で同市門脇町5丁目の自宅に戻った。「日和山に逃げよう」。両親を促した後、隣家のお年寄りをおぶって走りだした。
 その瞬間、背後で「ゴーッ」という大きな音。振り返ると、2階以上の「白い壁」が見えた。すぐ、津波にのみ込まれた。背中のお年寄りは、いつの間にか流されていた。午後3時40分ごろのことだ。
 がれきに乗って漂流していると、「ボン」という破裂音が聞こえ、辺りに赤い光が見え始めた。
 家やがれき、車が燃えながら迫ってくる。
 「焼け死にたくない」と濁流に飛び込んだ。流されている家財道具にしがみついたが、何度も振り落とされた。火の手があちこちで上がる中、消防団に救助された。
 辺りはもう夜のとばりが降りていた。高台に上がると、ごう音を立てて燃える建物が近くに見えた。門脇小だった。

 ◇燃え盛る門脇小からの脱出◇

 激震に襲われた門脇小。学校にいた児童約230人は校庭から墓地脇を抜ける階段を使い、日和山に避難した。日頃の避難訓練は津波を想定し、日和山に逃げることを鉄則としてきた。
 校庭にいた佐藤裕一郎教頭(58)は、住宅街の電柱が次々となぎ倒されるのを見た。津波が押し寄せてくることが分かった。校庭に避難していた住民約50人を校舎に誘導。間もなく、焦げた臭いと煙が漂ってきた。
 津波と火の手はすぐ近く。校庭からは逃げられない。職員は教壇を橋のように校舎裏の斜面に立てかけ、日和山方面へ逃げようと試みた。
 2階窓から脱出し、ひさしから教壇を渡した。地上からの高さは約2メートル。お年寄りも多かった。「山側に渡れば助かる。そう信じていた」と佐藤教頭。教職員と住民は手を取り合い、幅約1メートルの教壇を渡った。

 ◇上へ上へと逃げる中、なぜか1台のワゴンが高台から海岸方向へ…◇

 上へ、上へ。住民が安全な場所を求めて日和山へ急ぐさなか、1台のワゴン車が日和山から門脇町、南浜町地区へ向かって走っていた。
 日和幼稚園の園児12人を乗せた送迎バス。地震直後に園を出発し、南浜町などを回り5人の子どもを降ろした後、避難者でごった返す門脇小校庭に停車した。
 「バスを戻せ」。当時の園長、斎藤紘一さん(66)の指示を受け、幼稚園から教員2人が小学校脇の階段を駆け下りた。バスに追いついたが、園児を連れ戻すことはなかった。
 バスは再び出発した。途中、迎えに来た母親に園児2人を引き渡した。日和山に通じる坂の上り口で、バスは津波にのまれ、流された家に押しつぶされた。
 門脇町・南浜町地区一帯はすっかり炎に包まれ、13日午後6時ごろまで燃え続けた。
 14日、バスに乗っていた5人の園児は変わり果てた姿で見つかった。
 蛇田の佐々木純さん(32)は次女明日香ちゃん(6)を亡くした。「奪われずに済む命だった」。現場に行くたび、切なさがこみ上げる。
 津波に襲われ、猛火に焼き尽くされた門脇町・南浜町地区。そこでどれだけの人が犠牲になったのか。震災から2カ月半たった今も、分かっていない。→map


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大津波の証言・石巻市

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大津波の証言

石巻市 ・仙台市
南三陸町 ・名取市
女川町 ・気仙沼市
山元町 ・多賀城市
東松島市 ・亘理町
岩沼市 ・七ヶ浜
塩釜市 ・洋野町

  

  

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