証言の目撃地点マップは以下のとおり


河北新報社の“私が見た大津波”の6月3日掲載版。門脇小へ避難したが、燃え盛る家々が次々と校舎に衝突して燃え上がった校舎からの脱出体験談である→map

<11>火が校舎に燃え移った・門脇小    <6月3日 河北新報>

  火が校舎に燃え移り、裏山へ逃げた

 地震の後、会社が休みで家にいた夫(40)と三男(5)と一緒に、門脇小に3年生の次男(8)を迎えに行きました。高台に避難しようと校庭で近所の人と話していたら、教頭先生が「津波が来た! 早く校舎に上れ!」と叫びました。

 海沿いの雲雀野公園の方を見ると、遠くの電柱が次々となぎ倒されるのが見えました。走って3階の屋上に上り、下を見てあぜんとしました。既に校庭は家と車の海でした。屋上に50人ほどいましたが、皆、言葉が出ませんでした。

 家や車の隙間に見えた水はどす黒く、いつもの海の色と違いました。流れてきた家に火が付き、次々と校舎にぶつかりました。ドーン、カシャカシャと大きな音が響き、校舎が崩れるかもしれないと思いました。「ここで死ぬんだ」とぼうぜんとし、パニック状態にもなれませんでした。

 火は校舎に燃え移り、皆で2階の窓から板を渡して裏山へ逃げました。

 昨年2月にチリ大地震で大津波警報が出た時は皆すぐ避難したのですが、被害がなかったため、今回は避難しない人もいたようです。私も半信半疑でした。地域で大勢の人が亡くなってしまいました。
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河北新報社の“私が見た大津波”の6月17日掲載版。雄勝湾が見下ろせる裏山に避難して、「自分の家が流されたら雄勝は終わり」が現実となって行く様子を見てしまった目撃談である→map

<12>流された家が砕けた・雄勝   <6月17日 河北新報>

 流された家が裏山にぶつかり、砕けた

 

地震発生時は妻東子(68)と自宅の居間にいました。立っていられないほどの揺れ。町には子どものころ、「地震があったら津波の用心」と書かれた石碑があり、すぐ「津波が来る」と確信しました。

 隣人に「潮が引いている。大きいのが来るから逃げろ」と促され、私は懐中電灯とラジオなどを、妻は着替えの入ったバッグを抱えて裏山を目指しました。

 いったん裏山に来てから避難に必要と思い、自宅にブルーシートとなたを取りに戻り、再び中腹まで登ったところで津波が来るのが見えました。

 海岸沿いの神社を目印に見ると、海面が膨れ上がっているのが分かりました。津波は高さ3メートルの護岸を越え、町に押し寄せました。
 15分ほどで津波は裏山の真下まで迫り、雄勝の中心部は水没して見えなくなりました。流された家が裏山にぶつかり、バリバリと砕ける音が聞こえて不気味でした。

 伊勢畑は1960年のチリ地震津波の後で土地をかさ上げしていたので「自分の家が流されたら雄勝は終わり」と思ってましたが、まさかその通りになるとは。津波は住み慣れた家も街も、一気に奪っていきました。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の6月26日掲載版。家族全員が鹿妻小学校へ避難した後に津波が到達し、周囲の様子を物語った目撃談である→map

<13>水没した無数の車 ライトが光る・鹿妻小 <6月26日 河北新報>

 水没した無数の車 ヘッドライトが光る

 印象に残っているのは、避難した鹿妻小から見た光景です。
 津波の勢いが収まり、薄暗くなった時でした。車の電気系統がショートしたのでしょうか。水没した田んぼのあちこちでヘッドライト、ハザードランプが光り、クラクションが鳴っていました。

 3月11日は自宅で地震に襲われました。車で母らを鹿妻小に送り、次男と共に友人宅にいた長男を迎えに行きました。
 途中、車で仕事から帰る妻と偶然出会い、鹿妻小に向かわせました。その後、携帯電話がつながった長男を車で拾い、学校に急ぎました。

 津波が来たのは、体育館2階の踊り場に避難した直後です。
 近くの道路の水かさがどんどん増して、止まっていた車数十台が次々と流され、校舎脇の田んぼにぷかぷかと浮いていました。重油のような臭いがしました。

 日が沈むと、学校よりも海側にある自宅の方角で火が上がり、「誰も消火できないだろう」と思いながら、火事の様子を一晩中見ていました。翌朝、自宅に行くと、燃えたのは隣の家でした。

 家族は数々の偶然が重なって助かりました。亡くなった方々の分まで努力して、街を復興させたいと思います。
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河北新報社の“私が見た大津波”の6月29日掲載版。日和幼稚園付近まで逃げたが、その時の津波の目撃談である。旦那さんは避難後に自宅へ戻ったまま行方不明となった→map

<14>日和幼稚園付近まで逃げ津波見た  <6月29日 河北新報>

 海鳴りに似たごう音、渋滞の車のむ

 石巻市湊の外出先で三女(3)と地震に遭いました。近くの西港で仕事中だった潜水士の夫(32)と弟を車に乗せて自宅に戻る途中、日和大橋近くの防波堤の水位が約2.5メートル下がっていたのに気付き、「津波が来る」と焦りました。

 自宅で子どもの着替えなどを車に積み、高台の日和山にある次女(5)の幼稚園近くまで来たとき、車の窓から眼下に水しぶきが見えました。

 水しぶきは4階建てほどの高さがあり、煙や土ぼこりも上がっていて、海鳴りに似たごう音が聞こえました。渋滞中の車は脇道から来た水にのまれ、腕を血だらけにした男性が、漂流する車の窓から子どもと女性を引っ張り出すのが見えました。

 第1波が引かないうちに、水しぶき越しに黒い第2波が迫るのが見えました。水かさは増し、門脇小前にあった3階建てのケーキ店の屋根しか見えませんでした。波は高台にぶつかって向きを変え、家や車を旧北上川方向に押し流しました。

 門脇小に通う長男(9)、長女(8)と、次女は避難して無事でした。でも、夫は子どもたちの避難を確認した後、仕事で油まみれの作業着を着替えようと家に戻ったまま、行方不明です。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の7月13日掲載版。大街道小学校の3階に避難して押し寄せた津波で家や車がぶつかり合う音、叫び声を聞いたという津波目撃談である→map

<15>家、車のぶつかり合う・大街道小  <7月13日 河北新報>

 家、車のぶつかり合う音、叫び声響く

 石巻市大街道南にあった勤務先の会社で地震に遭い、同僚約100人と近くの大街道小に避難しました。体育館前にいましたが「津波が来る」と聞いて、3階の教室に上がりました。

 午後4時6分ごろ、窓から外を見ると、海の方から黒い水が、すごい勢いで道路をさかのぼってきました。あっという間に脇道や住宅の敷地に流れ込み、渋滞中の車や駐車場に止めてあった車が次々にのまれました。

 家や車がぶつかり合うガラガラ、ガシャンという大きな音と、その様子を見ていた人たちの叫び声が響き渡ったのを覚えています。

 その晩は、地震でガラスが割れた教室に泊まりました。翌朝、深い所だと、足の付け根まで冷たい水に漬かりながら、東松島市の自宅を目指しました。浸水を逃れた国道45号までたどり着くと、車で来ていた父親に偶然会い、午後2時半ごろに長男(2)の待つ家に着きました。

 思えば、津波に襲われる30分ほど前に「もう帰ろう」との声も出ましたが、「あと30分待とう」と呼び掛け、学校に踏みとどまったことで、私自身も命拾いしました。あのとき、車で帰っていたら、どうなっていたか分かりません。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の7月26日掲載版。船越漁港の近くから、ぎりぎりのタイミングで避難し、信じられない光景を目にしたという目撃談である→map

<16>大きな渦、船も家も・・・雄勝町船越 <7月26日 河北新報>

 大きな渦、逆立ち状態の船をのむ

 自宅は船越漁港から50メートルほどのところにありました。大きな揺れの後、妻を船越小に避難させ、車も高台に移動しました。漁港の近くまで戻ると、近所の住民8人が逃げるところでした。

 その時、消防団の班長が「津波が来るから逃げろ」と大きな声を出して、やってきました。すぐに、真っ黒い津波が防波堤を乗り越えてきました。防波堤にあった高さ10メートルの赤い灯台が水にのまれ、倒れるのが見えました。

 波は漁港の南側に押し寄せて、漁協の3階建ての建物などを沈めた後、北側に跳ね返り、漁港の中ではいくつも大きな渦が巻いていました。いかりで固定していた2トン級の漁船は、逆立ちしたような状態で水中にのみ込まれました。

 漁港を囲むように立っていた民家は次々と流され、互いにぶつかりながらビリビリと音を立てて壊れました。信じられない光景に誰も声を出すことができませんでした。

 私ら10人は、水没を免れた住宅の2階に避難し、3日間過ごしました。妻と再会したのは、水が引いた4日目。自宅を見に行くと、建物はもちろん土台すらありませんでした。→map



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河北新報社の“私が見た大津波”の8月9日掲載版。何とか激流を脱出したものの、迫る炎から逃げるために再び水中へ。壮絶な津波体験談である→map

<17>迫る火の手、激流の中へ・門脇4丁目付近<8月9日 河北新報>

 激流にのまれ、火の手に追われ

 赤く燃え上がる炎の向こう側に見えた消防団の姿を、今でもはっきりと覚えています。

 3月11日は自宅近くで、2階以上の高さがある津波を目撃した後、激しい流れにのみ込まれました。水中でもがきながら、何度も水を飲み、ようやく水面に顔を出したところで、近くの住宅の2階にいた男性が引き上げてくれました。

 しばらくして周囲の家や車から炎が上がりました。ほかの家の屋根を伝って逃げましたが、火の勢いは強くなる一方で、我慢できないほどの熱さでした。コンクリートの建物が見えたので、炎から逃れようと、水の中に飛び込みました。

 建物に向かって、必死に手足を動かしましたが、波に戻され、思うように進むことはできませんでした。泳ぎ疲れて体が重くなったころ、たまたま流れてきたがれきにしがみつきました。

 そのまま数百メートルほど流された後でした。日和山の方向に懐中電灯の明かりを見つけました。消防団でした。「助けてくれー」。全身の力を振り絞って叫びました。私の声に気付いた消防団は、はしごを渡して、救助してくれました。→map



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河北新報社の“私が見た大津波”の8月16日掲載版。1人残った漫画館に川を逆襲してきた黒い水が入り込み、3階へ避難して周囲の悲劇をぼうぜんと眺めるだけだったという体験談である→map

<18>ごう音立て川を逆流・石ノ森萬画館 <8月16日 河北新報>

 ごう音立て一気に川を逆流

 石巻市の旧北上川の中瀬にある勤務先の石ノ森萬画館で津波に遭いました。大津波警報で来館者とスタッフが館を出た後、1人残って被害箇所の写真を撮っていました。

 地震の1時間後、1階から外を見ると、水位が下がった川面にかぶさるようにザーッと水が逆流してきました。水はごう音とともに一気に上り、入り口のガラスが割れて館内に流れ込みました。
 身の危険を感じ、急いで3階に駆け上がりました。水の色は途中から真っ黒に変わり、重油のような臭いがしました。

 対岸の家が海側からバリバリと崩れ、眼前のアパートが浮かび上がって橋のたもとで粉みじんに。近くの岡田劇場はゆっくりと列車のように上流に動いていきました。

 橋の上で渋滞した車は横転しながら流されました。河口近くの家やがれきが流されて時速70~80キロで橋にぶつかりました。屋根などにしがみつく人も多くいましたが、ぶつかった瞬間に滑り落ちて見えなくなりました。

 何もできないまま、ただぼうぜんと見ているしかありませんでした。

 ほんの14、15分の出来事でした。波が引いた後、橋の上に取り残された人や流されてきた人たち約40人を館内に入れ、数日間過ごしました。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の9月2日掲載版。ぎりぎりのタイミングで2階に逃げ込み、津波に絶えたという体験談である→map

<19>津波が庭に流れ込む・緑町    <9月2日 河北新報>

 電柱や車実家の庭に流れ込む

 石巻市緑町の実家で津波に遭いました。仕事が休みで両親を訪ねた帰り、JR石巻駅構内の列車の中で発車を待っていたところで地震が起こり、すぐ引き返しました。

 内海橋を渡り、湊中近くを歩いて帰る途中、大津波警報を伝える防災無線が聞こえました。家に着き、片付けをしていた両親に「津波来るってよ」と言って2階に上がると、前の道路に高さ約1メートルの水が来ていました。
 「もう来てる! 早く!」と大声で両親を2階に呼びました。最後に階段を上った母のすぐ後ろに、水が迫っていました。室内に水が入らないよう母と2人でドアを押さえました。
 外を見ると、隣家が流され、折れた電柱や、ひっくり返った車が庭に流れ込んできました。1階屋根まで達した水は、波というより液状のコンクリートのようで、ザーッという音がしました。

 津波は朝までに4、5回押し寄せました。遮る物がなくなったせいか2波目を一番大きく感じました。一時は死を覚悟し、身元が分かるよう保険証などをビニールに入れて身に着けました。

 近所のお宅に3家族が身を寄せて救助を待ち、仙台に戻れたのは4日目でした。近所の皆さんのおかげで生き延びられたと感謝しています。→map


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河北新報社の“私が見た大津波”の10月24日掲載版。勤め先の石巻広域クリーンセンター4階に避難し、海岸林を超えるような大津波が港を飲み込む様子を目の当たりにした。→map

<20>石巻広域クリーンセンター    <10月24日 河北新報>

 貨物船、回りながら川さかのぼった

 勤め先の石巻広域クリーンセンターで地震に遭いました。揺れが収まった後、津波を警戒し、同僚や近くの工場の従業員らとセンターの3階に上りました。

 午後3時25分ごろでした。津波が岸壁を乗り越えて、茶色の水が地面をあっと言う間に覆いました。後から重なるように波が押し寄せ、そのたびに水位が上昇しました。
 身の危険を感じ、みんなで4階へと移動しました。海を一望できる窓から沖を見ると、1キロほど先で水蒸気のようなものが見えました。海岸林を超えるような大津波が、車が走るようなスピードで、波しぶきを上げながら向かってきたのです。

 津波は港の対岸の造船施設をのみ込みました。建造中の貨物船は押し流され、漂流を始めました。別の貨物船は船首を旋回させながら、定川をさかのぼりました。丸太も次々と流れてきました。午後3時45分ごろです。

 その後、ものすごい勢いの引き波が起きて地面が見えたかと思うと、再び押し波が来て、一帯が水没するようなことが何度も繰り返されました。

 センターは、1階部分が水没しました。職員らと共に、情報収集や機器類の点検をしながら一夜を過ごしました。

 

 


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大津波の証言・石巻市

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