証言の目撃地点マップは以下のとおり

大津波の証言/岩沼市のマップ


 岩沼市内での死者数は180人、行方不明者2名(6月3日現在)という被害となった。仙台空港ターミナルビルは海岸から約1.4㌔の距離にあり、貞山堀が海岸から約1㌔の距離で海岸と並行している。岩沼市で壊滅状態となったエリアは、まさに空港ビルとほぼ同じ海から約1.5㌔以内の地域であった。空港周辺には臨空工業団地と二の倉工業団地があるが、立地している企業約230社の大半が被害に遭っている。特に、貞山掘の海側に立地していた二の倉地域は壊滅状態である。
 岩沼市内の津波証言記事は5月17日、河北新報社の大震災ドキュメント“その時 何が”で津波避難所の機能を果たした仙台空港でのドキュメントだった。→map

<1>大震災ドキュメント“空港水没”    <5月17日 河北新報>

 通信不能、1600人孤立

 「仙台空港ターミナルビルに1300人が孤立」。3月13日夕に発行された号外は、宮城県や県警などの情報として、こう報じた。国内8都市、海外7都市と結ぶ東北の空の玄関口は、滑走路などが津波に襲われ、水没。周囲は無数の自動車やがれき、小型飛行機が浮かぶ中で、空港ビルは「孤島」と化していた。

 ◇土産品食べ救助待つ◇

 仙台空港の上空は、どんよりとした低い雲が垂れ込めていた。3月11日午後2時40分、中国国際航空924便が、乗客61人を乗せ、中国・大連に向けて離陸した。
 激しい揺れが襲ったのは、わずか6分後だ。
 実は、地震の1分前、2時45分に大阪(伊丹)発の日本航空2209便が着陸するはずだった。天候不良で到着が遅れていた。
 仙台空港であの日、発着を予定したのは国内線約80便、国際線8便に上る。空港で旅客機の駐機がゼロになるのは1日3、4回、それも、それぞれ数分から20分程度にすぎない。地震発生時、大阪便の遅れで、奇跡的に滑走路に旅客機はなかった。
 空港関係者が「不幸中の幸い」と胸をなで下ろしたのは、だが、わずかな時間だけだった。午後4時ごろ、車やがれきをのみ込みながら、巨大津波が襲来する。

 ◇  ◆  ◇

 岩沼市下野郷の特別養護老人ホーム「赤井江マリンホーム」は、目と鼻の先に太平洋が広がる。
 津波が来るとラジオが告げた。事務長の鈴木信宏さん(53)は、避難先を約1キロ北の仙台空港ターミナルビルに決めた。
 職員は利用者96人を9台の車でピストン輸送した。職員を含む144人全員が避難を終えたのは、津波が襲来する直前、午後3時53分だった。  空港ビルは、名取市と岩沼市の指定避難所だ。地域の住民約250人が続々と集まった。岩沼市議会議長の沼田健一さん(61)=同市下野郷=も身を寄せた。
 津波が滑走路を水の底に沈め、到着ロビーなどがある空港ビル1階にがれきや車などを押し込んだ。停電、断水、通信不能。旅客や地域住民、航空会社やビル、関連施設の職員ら1600人が孤立した。目の前の惨状に、沼田さんは「1週間は脱出できないと覚悟した」。

 ◇  ◆  ◇

 1600人は2階、3階に分かれ、土産品などを食べた。空港に食料と水は十分にあった。  孤島のビルに最初にたどり着いたのは、富山県高岡市高岡消防署の特別救助隊員だった。
 夜通し車両を走らせ、12日早朝から救助に入った。空港の約1キロ手前で道路は冠水。ボートで接近を試みたが、がれきに阻まれ船外機もオールも使えない。隊員が交代で、胸まで水に漬かってボートを押した。
 午前10時22分、ようやく空港ビルに着いた。救助隊長の小原政和さん(35)は避難者たちの安堵(あんど)の表情を見て、「全員を助け出さなければならないと強く思った」と振り返る。
 「滑走路伝いに西側ゲートから陸路が使える」。救助隊から連絡を受けた名取市消防本部が、がれきを撤去し、午後4時ごろ、車1台分の通路を確保した。地震発生から25時間。空港の孤立状態が解消された。
 マリンホームの利用者と職員は12日夕、空港職員らは13日にバスや徒歩で脱出を開始した。最後の住民約100人が空港を後にしたのは16日だった。(門田一徳)

map


                                         ページのトップへ戻る

 河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
 河北新報社の“私が見た大津波”の7月5日掲載版。仙台空港南の臨空工業団地内のフジパン仙台工場で勤務中だった職員の体験談→map

<2>茶色くてどろどろした水襲来・フジパン <7月5日 河北新報>

 茶色くてどろどろした水襲来
         フジパン仙台工場

 岩沼市空港南のフジパン仙台工場1階で働いていたとき、地震に遭いました。駐車場に出ると、近くの会社の人たちも続々と集まってきました。

 ラジオで津波が来ると聞いて、2階に移動しました。その後、家族を迎えに来た男性が「10メートルの津波だ。ここではだめだ」と叫んだので屋根に上がることにしました。
 でも、足が悪くてリング状のはしごの途中でどうにも足が上がらない。「急げ」と言われて「無理」と返すと、「ばっちゃん、頑張れ」と若い男性たちが屋根に引っ張り上げてくれました。

 15分ほどして、浮世絵みたいなグレーの波が見え、一瞬で茶色くてどろどろした水が来ました。車やトラックは積み重なって流れ、松などの木が根っこごと運ばれるのを、小雨の中、ぶるぶる震えながら見ていました。

 会社は海から約1.5キロ離れています。そこが「海」になるなんて、想像をはるかに超えていました。

 夜は2階の倉庫で過ごしました。社員の方が段ボールなどを用意してくれましたが、寒くて眠れません。数人で笑いとヨガの呼吸法を組み合わせたラフターヨガをして、体を温め、恐怖感を和らげました。皆で会社を出たのは翌日午後でした。

 YouTube に掲載されているフジパン屋上から撮影された津波動画



                                         ページのトップへ戻る

ページのトップへ戻る