洋野町は岩手県の沿岸最北に位置しているが津波の高さは10mをやや上回った。
しかし、沿岸住民の避難対応がよかったことと、役場所在地の種市には高さ12mの防潮堤があったことで三陸沿岸の市町村では唯一、人的被害がゼロだった。
ただし、基幹産業である漁業は、漁場、漁業施設等に壊滅的な被害を受けた。

 洋野町に関する最初の津波証言記事は4月29日、岩手日報だった。その日、洋野町付近を車で走っていた記者が地震に遭い、その後の大津波警報を聞いて種市漁港が見下ろせる高台に移動し津波を撮影した。
 ↓撮影ポイントが分かる地図

洋野町の津波撮影ポイントマップ


<1>一気に漁港のみ込む      <4月29日 岩手日報>

種市漁港を襲う津波(1)

 3月11日の地震発生時は取材先に向かおうと洋野町大野地区を車で走っていた。突如、携帯電話が聞き慣れない音を立てて鳴りだし、緊急地震速報と知って路肩に車を止めた。

 外に出ると地面が大きく横揺れし、ガードレールがギシギシと大きな音を立てて揺れていた。立っていられない強い揺れではなかったが、その異常な長さに不安を覚えた。車内のラジオで大津波警報が発令されたと聞き、慌てて支局のある種市地区に引き返した。

 三陸沿岸に高さ10メートル級の津波が到達したというラジオの情報に真っ青になり、種市漁港を見渡せる町役場種市庁舎近くの高台へ向かった。

 地元住民ら数十人と海岸を見渡すと、ウニを蓄養するための増殖溝の溝がくっきりと分かる程度に潮が大きく引いていた。

種市漁港を襲う津波(2)

 間もなく沖からやってきた大きな第1波が高さ5メートルほどの漁港防波堤に勢いよくぶつかり、波しぶきを上げた。

回り込んだ波は、作業小屋を破壊しながら勢いよく漁港内に流入。付近の小屋がめきめきと音を立てて壊れる音が響く。

係留していた漁船、軽トラックもあっという間に津波にのまれ、おもちゃのように翻弄(ほんろう)されていた。

津波はわずか数十秒で漁港一帯をのみ込んだ。





種市漁港を襲う津波(3)

 勢いよく波が引きだすと、粉々に砕かれた防波堤の残骸が無残に散らばり、津波の威力をまざまざと見せつけた。

深さ 5メートルほどある漁港の底が見えるほどに波が引き、その後再び大津波が押し寄せた。

 高台は海抜15メートル以上の高さにあり、ほぼ同じ高さにある町中心部も直接的な被害は免れたが、15メートル級 あるいはそれ以上の津波だったらどうなっていたか想像もつかない。

 「これじゃ漁も何もできない…」。漁業者の悲痛な声が聞こえる。寒さと津波の恐怖に膝を震わせながら、ただぼうぜん と立ち尽くすしかなかった。 


 河北新報社は11月24日、朝刊の「焦点 3.11 大震災」のコーナーで、津波に対する避難訓練体制が奏功し犠牲者ゼロを記録した洋野町の当日の対応の詳細を町役場職員と消防団員の証言を紹介しながら詳細に伝えた。→map

<2>犠牲者ゼロ 「まず逃げて」訓練奏功 <11月24日 河北新報>洋野町の津波対応についての11月24日・河北新報社記事

 青森県境にある岩手県洋野町は、東日本大震災の被害が大きかった岩手、宮城、福島3県の沿岸自治体で唯一、死者・行方不明者がゼロだった。南北に長い人口1万9000人の町。「とにかく逃げろ」。過去の津波被害の教訓から、その意識の高い町民が多かったという。他の自治体では避難誘導などで犠牲者が出た消防団も、任務終了後は逃げることを徹底した。犠牲者ゼロの陰には、町を挙げたここ数年の取り組みがあった。(亀山貴裕)

 町道を封鎖

 洋野町役場に勤める佐々木安武さん(52)は3月11日、庁舎で激震に見舞われた。
「尋常ではない」。
即刻、所属する地元消防団の詰め所がある八木地区(約260世帯)に車を走らせた。

 役場から約8キロ離れた詰め所には数分で到着。同地区は数々の津波被害に遭ってきたにもかかわらず、町内で唯一、防潮堤が整備されていない。

 「すぐ高台に避難してください」。消防車両に乗り込んだ佐々木さんは、拡声器で呼び掛けた。約10分後、事前に取り決めていた高台に退避。住民が低地に降りないよう、町道を封鎖した。全て訓練通りだ。

 他の地区の消防団員も、分担で決まっている水門全部を12分以内で閉鎖し、すぐさま避難した。

 八木地区を担う消防団第2分団第3部長の久保利美さん(59)が説明する。「消防団も任務を終えたら退避を徹底する。そう決めていた。津波には誰だって勝てない。死んでしまえば、その後の活動もできなくなる」

 意識変える

 同町では明治三陸大津波(1896年)で254人、昭和三陸津波(1933年)で107人が死亡。その多くは八木地区の住民が占めた。今回も、八木地区を含めて住宅55棟、漁業施設などの非住宅125棟に津波被害が出た。漁船に至っては7割近くを失った。
 それでも犠牲者どころか、けが人すら出なかった洋野町の「奇跡」。その背景には、海のそばに丘陵地が広がる地形、消防団の意識改革、住民の日ごろの備えもある。

 同町では昭和三陸津波が襲った3月3日に毎年、早朝に防災訓練を実施してきた。しかし、参加者が年々減少。消防署が中心となり、2006年から防災訓練の在り方を見直してきた。
 住民アンケートを行い、訓練を日曜日の日中に変更。07年には消防団員の退避行動、08年には低地に続く町道の道路閉鎖が、訓練のメニューに加わった。
 それが消防団員の意識を変えた。久慈消防署種市分署の庭野和義署長が説明する。「数年前までは、地震後も沿岸で潮位を見守る団員もいた。消防団が率先して退避すれば、住民も必死に逃げるはずだ」

 防災組織も

 訓練で「逃げる」ことを徹底してきたのに加え、08年以降、各地で設立された自主防災組織の活動が、住民意識を高めたという。
 八木北地区の自主防災組織は、高台に上る避難路の除草や整備をしてきた。避難路の掃除は、逃げる道筋を頭に焼き付けるのに役立った。過去の大津波の経験者から、話を聞く場も設けた。
 幹事の蔵義浩さん(68)は「かつて津波で多くの犠牲者を出した八木地区では“逃げるが勝ち”という意識が強い。自主防には全戸が加入し、顔が見える関係を構築したことが、今回の避難で生かされた」と話す。
 防潮堤というハードに頼らず、住民の命を守った八木地区の活動。蔵さんは痛感した。教訓に学び、それを生かす訓練がいかに大切か―と。→map


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