証言の目撃地点マップは以下のとおり
死亡率=(死者数+不明者数)/(死者数+不明者数+避難者数)×100としたとき、東日本大震災で最も高い死亡率となったのが女川町の55.9%だった。女川町が甚大な被害であったことを物語っている。津波の高さは20mにも達したため山間の集落までもが全壊の被害となったのである。
河北新報社は3月15日、女川町立病院でケガの治療を受けていた女川町の運転手浅野秀幸さん(38)から得た津波の証言を報じた。浅野さんは石巻市長浜で津波に襲われたのだが、女川での証言とした→map
<1>野球ネットで命拾い・渡波小~町立病院【3月15日 河北新報】
野球ネットで命拾い 避難住民、ロープ投げ救助
地震から2日後の13日正午ごろ。宮城県女川町の運転手浅野秀幸さん(38)は両足にけがをしながら、石巻市渡波小の避難所から数キロ離れた女川町立病院に、2時間半かかってたどり着いた。
浅野さんは石巻市長浜でトラックの積み降ろし作業をしていて、津波に巻き込まれた。
目の前を流れていた材木につかまって漂流した。目に入ってきたのは、渡波小の校庭にある野球のバックネット。とっさの判断で金網につかまった。
渡波小の教室に避難していた住民らは、その光景を目撃。教室のカーテンを細く破ってロープを作り、浅野さんに投げて助け上げた。
「たまたま流れ着いたところが良かった。本当に何という偶然か」と浅野さん。万石浦の津波が引く13日朝まで、乾パンで飢えをしのぎ、学校にあった小学生のジャージーを借りて過ごした。
たまたま、女川町立病院は妻の勤務先。病院で妻の顔を見て、けがの手当を受けた浅野さんは「自宅は津波にさらわれてなくなってしまったが、家族も無事でホッとした」と声を弾ませた。
→map
河北新報社は5月7日の朝刊20面のほぼ一面を使用して、“川から津波が 海見えぬ山あいの集落まで爪痕”との見出しで、津波が河川をすさまじい勢いでさかのぼり海が見えない山あいの集落を襲ったという3地点の証言記事を報道した。そのうちの一つが女川浜清水地区の証言記事である。→map
<2>山あいに津波・女川浜清水 <5月7日 河北新報>
想定縛った「チリ」 宮城・女川
海が見えない場所にある宮城県女川町女川浜の清水地区。1960年のチリ地震津波では浸水を免れたが、大震災の津波は容赦なく襲い多くの犠牲が出た。生き残った住民は口々に「想定外だった」と言う。
「地域の住民が想定していたのは60年のチリ地震津波の規模。逃げ遅れて亡くなった人が多い」。清水地区最北の清水3区の青砥祐信区長(69)が語る。
清水3区には117世帯、340人が暮らしていた。青砥区長によると、約20人の死亡が確認され、41世帯の行方が分かっていない。青砥区長は「ここより海に近い1、2区はもっとひどいだろう」と話す。
清水地区は、石投山(456メートル)の麓から蛇行して女川湾に注ぐ女川に沿って南北に伸びる山あいの集落。女川湾からは500メートル~2キロ離れ、海抜は5~10メートルだ。
津波は谷間に沿って川と道路をさかのぼり、湾から約2.1キロ離れた林の中にまで達した。
地区で最も湾から離れた女川浜新田の漁師阿部学さん(76)宅も水に浸った。阿部さんは「家の前から普段は見えない白波が見えた。波がかなりの高さだったのでは。津波が来ると思ったが、まさかここまで到達するとは思わなかった」と振り返る。
清水2区の女川浜日蕨、石田義幸さん(58)は、義父(90)から昭和三陸津波(1933年)で清水地区が津波で壊滅状態になったと聞かされたことがあったが実感は持てなかったという。
石田さんは「住民は直近で経験したチリ地震津波のことばかり頭にあった。港の近くから『ここなら大丈夫』と清水地区に避難してきて被害に遭った人もいた」と語る。→map
河北新報社は4月12日、『大津波の瞬間、人々は何を見て、どう行動したのか。津波被災体験を絵で伝え残し、振り返ってもらいます』との趣旨で“私が見た大津波”シリーズの連載(不定期)を開始した。読者から寄せられた津波体験談を目撃者がそのときに撮影した画像又は、目に焼きついた風景画とともに報じていることが特徴的である。
女川町に関する最初の証言記事は5月18日。女川駅近くの自宅で地震に遭い女川二小へ避難して恐ろしい津波を目撃した→map
<3>押し寄せた灰色の山・女川二小 <5月18日 河北新報>
濃い灰色の山、押し寄せてきた
海岸から400メートルほど離れた自宅で地震に襲われました。経験がないほどの大きな揺れだったので、すぐに津波が来ると思いました。民生委員を務めていることもあり、まずはお年寄りを避難させるため、数軒の家に声を掛けました。
自宅に戻ると、外出していた母が帰ってきていたので、車に乗って高台にある避難所の女川二小に向かいました。途中で3人のお年寄りも同乗させました。小学校の駐車場や校庭には大勢の人が避難していました。
地震から、20~30分たったころだと思います。近くにいた人が「津波だ!」と叫びました。町役場の方を見ると、濃い灰色をした山のような波が、すごい勢いで押し寄せてきました。既に町の半分ぐらいは水没し、自宅も見えませんでした。
津波が目の前を横切る間、「ゴォーーー」という地鳴りのような音と、バリバリと家がぶつかり合って壊れる音が響いていました。
巨大な波が、建物や木など街にあったすべてのものをのみ込む様子を、ただぼうぜんと見ていることしかできませんでした。→map
河北新報社の“私が見た大津波”の6月11日掲載版。10mの津波と聞き県原子力防災対策センター屋上に避難したのだが、漁船が屋上に乗り上げ… →map
<4>屋上に船が・県原子力防災対策センター <6月11日 河北新報>
水の壁押し寄せ屋上に船が迫った
海から500メートルの自宅で地震に遭いました。山側に200メートル歩き、県原子力センターに妻と避難したのは20分後。2階に着くと警報は「津波の高さ6メートル」と伝え、すぐ10メートルと続報が入りました。
「10メートルではここは危ない」と職員が隣の県原子力防災対策センターに避難を促しました。住民18人と職員約10人で2階に上がると、真っ黒い壁のようなものが、街の全てを巻き込んで迫ってくるのが見えました。
皆で屋上に逃げました。妻と高さ1.5メートルのパラボラアンテナの台に上がり、海に向いたアンテナの背面にしがみつきました。水は胸まで達し、勢いが強くて鉄骨をぎっちりつかまないと流されそうでした。
漁船が屋上に乗り上げ、3メートル手前まで迫ってきました。直撃したら終わりだと思いましたが、何かに引っ掛かったため事なきを得ました。その後、ものすごい引き波で家や車、助けを求める人が流されていきました。
水は30分で引き、助かったのは住民5人、職員6人だけでした。外国航路などの船乗りを34年務めましたが、これほどすさまじい海を見たのは初めてです。とにかく高台に逃げるしかないと思いました。→map
河北新報社の“私が見た大津波”の7月29日掲載版。自宅2階にいて津波に襲われ流されてしまったという壮絶な体験談である→map
<5>濁流にほぼ水没・女川町役場 <7月29日 河北新報>
5階の建物、濁流にほぼ水没
3月11日の夜、女川町役場の裏山に避難したときのことでした。水に漬かっている町生涯教育センターの窓から、懐中電灯のような明かりが見えました。「生存者がいる」。驚き、勇気づけられました。5階建てのセンターは一時、ほとんど水没していたからです。
震災発生時は、町役場にいました。強い揺れが長く続き、庁舎がきしみました。
津波は午後3時半ごろ役場に到達し、庁舎前の車が流されました。3階に上ったとき、女川港の灯台が波にのみ込まれるのを見て、ほかの職員、住民とともに4階ベランダを目指しました。
センターは道路を挟んで、役場の向かいにありました。茶色の濁流は水位を増しながら、役場とセンターの間を大河のように流れました。センターは屋根の一部を残して水没していました。職員と利用者のことが心配でした。
水が役場の4階ベランダに迫ったため、はしごを登って塔屋に避難しました。お年寄りを引っ張り上げ、車いすの女性は消防ホースでつり上げました。
水が引いた夕方、役場の裏山に脱出しました。センターの職員と利用者全員の無事を確認できたのは、翌12日のことです。→map
kento3318さんがYou Tubeにアップロードした映像からのカット
河北新報社の“私が見た大津波”の8月12日掲載版。3階まで水没したマリンパル女川の展望台に避難し、水没していく町と強烈な引き波の様子を綴った→map
<6>車や家が砕けた・マリンパル女川 <8月12日 河北新報>
車や家、ぶつかり合い、砕けた
地震発生当時は、勤務先のマリンパル女川にいました。大きな揺れが収まった後、訪れていた家族連れを高台に避難させて、職員、従業員は4階ほどの高さがある展望台に上りました。
津波は最初、意外なほど静かに近づいてきました。次第に水は黒くなり、水位もどんどん上がりました。低いビルは水没して姿を消し、たくさんの建物が流されました。マリンパルも3階まで水に漬かりました。
黒い水は高台にある女川町立病院にも迫り、駐車場の車が次々と流されるのが見えました。
しばらくして引き波になりました。内陸部に浸水した水が、海に吸い込まれるように、一気に逆流しました。押し波のときとは対照的に、周囲にはゴーゴーという大きな音が響きました。
写真のように水の勢いは激しく、黒い水が白く泡立ちました。家や車などがいくつもぶつかり、砕けました。水が引いて初めて、近くの鉄筋コンクリートのビルが倒れていることに気付きました。
その後、押し波と引き波を何度か繰り返しました。引き波では、桟橋周辺の海底が見えたときもありました。→map
河北新報社は8月26日の朝刊1面と23面を使い、波高20mの津波で中心市街地が壊滅した女川の惨状を町立病院、商工会館、町役場の緊迫感に満ちた詳細な証言で編集しており、当日の模様をリアルに再現している→map
<7-1>海抜16メートルの病院襲う・町立病院<8月26日 河北新報>
証言/宮城・女川中心部壊滅
海抜16メートル 濁流、病院襲う
東日本大震災で港に面した中心市街地が壊滅した宮城県女川町では、津波による浸水が海抜約20メートルに達した。港周辺に立つ商業施設や公共施設はほとんど水没。津波は鉄筋の建物をなぎ倒すほどの威力で、多くの町民が逃げた高台の町立病院にも押し寄せた。町役場も最上階まで浸水し、町の防災無線は市街地が津波にのみ込まれている最中に途絶えた。
「まさか、ここまで」避難の車、次々と流された
◇噴出◇
3月11日。最初の揺れが収まってから約30分後、宮城県女川町鷲神浜の女川町立病院駐車場で見た光景に、経営する港近くの中華料理店から避難してきた鈴木康仁さん(39)=女川町女川浜=は目を疑った。
はるか遠くの岬の先端にあった高さ6メートルの防潮堤を白波がのみ込み、大きなうねりとなって街に迫ってきた。
病院は女川港を見下ろす海抜16メートルの高台に立つ。「まさか、ここまで津波は来ないだろう」。鈴木さんは駐車場にとどまり、港の周りの様子を見ていた。
商業ビルなどが立ち並ぶ港の一帯では、至る所で噴水のように水が噴き出していた。一気に水かさが増し、何棟かのビルで、屋上に避難する人が見えた。
◇水没◇
「ここではだめだ」。鈴木さんは駐車場を後に、病院西側のさらに高い場所にある熊野神社を目指し、階段を駆け上がった。パキパキパキ。階段を上る途中、不気味な音が聞こえた。津波が濁流となり、建物を壊す音だった。
踊り場で、後ろを振り返った。3、4棟を除いて、港近くにあったビルは水没していた。目をこらすと、4階建ての商工会館が見えた。屋上に人影があった。次の瞬間、会館の屋上も水中に消えたように見えた。
数分前までいた病院駐車場にも、津波が迫っていた。避難した人たちが乗ってきた車が次々と濁流に浮き、流された。
「高台に逃げろ」。女性の声で避難を呼び掛けていた防災無線が急に男性に代わり、叫び声が聞こえた。その声を最後に、無線は途絶えた。
「皆、死んだ」。鈴木さんはその場にぼうぜんと立ちつくした。町立病院に逃げた人たちの安否が気掛かりだった。
◇必死◇
そのころ、町立病院。職員が患者や逃げてきた町民を2階より上に誘導していた。駐車場に津波が迫っていた時、1階フロアにはまだ、約20人がいた。
当時、院内で働いていた阿部ゆかりさん(39)=同町浦宿=もその一人。「病院にいれば、安全だろう」。本震後約20分は、病院の内外を行ったり来たりしていた。駐車場から、車や民家などが濁流に押し流されているのが見えた。震えが止まらなくなった。
院内に戻ると、男性の声が聞こえた。「津波が来たぞ」。阿部さんは階段に向かって走った。階段の幅は約1.3メートル。上り口に人が集中し、立ち往生していた。
階段の約2メートル手前で、駐車場にあった車が濁流とともに玄関のガラスを突き破って入ってきた。数秒であごの下まで水に漬かり、体が浮いた。高さ2.5メートルの天井がすぐ真上に見えた。
なすすべなく流された。すぐそばで浮いていた自動販売機に必死にもがいて、つかまった。販売機にはほかに4人がつかまった。
やがて、ゆっくりと水が引いた。10分ほどたつと、床に足が付いた。「助かったんだ」。全身の力が抜けた。
女川町や町立病院によると、町内の津波浸水の最高位は海抜20.3メートル。町立病院1階の浸水は高さ約2メートルに達した。3月11日、町立病院は職員や入院患者、避難者ら653人を収容した。後日、敷地内で4人の遺体が見つかった。
<7-2>給水塔登り 九死に一生/商工会館、屋上も冠水
港近くにあった建物のほとんどが津波にのみ込まれた宮城県女川町で、4人の男性が一時は建物全体が水没した商工会館の屋上にいた。屋上の給水塔に登って助かった4人は、間近で津波の威力を目の当たりにした。→map
商工会館 屋上も冠水
商工会館は鉄筋コンクリート4階建て。屋上には高さ約5メートルの給水塔があり、1.5メートル四方の台座に立つ4本の支柱が給水タンクを支えていた。
本震が発生した当時、会館には商工会職員の青山尊博さん(38)ら男女7人がいた。女性職員や外部の関係者を先に逃がし、青山さんら4人が屋上に登った。
青山さんらが屋上にたどり着いた時には既に、津波が4階に達していた。4人はそれぞれ支柱にしがみついた。足元で、目の前で、建物などが流される様子を見た。
青山さんと商工会職員の遠藤進さん(55)は、しがみついた柱を挟んで向かい合う形になった。
「病院もだめだ」
「皆、死んだべや」
「終わるときはこんなものか。あっけない」
あぜんとしながらも、気持ちを落ち着かせるために、努めて互いに言葉を掛け合った。
引き波で陸から流れてきた木造家屋などが、倒壊を免れた他の建物にぶつかると、ごう音とともに水しぶきが上がった。
ばらばらの木片になる建物、燃えながら流される民家。波音や建物が壊れる音とともにプロパンガスの噴出音も聞こえ、2人とも「次第に言葉が出なくなった」(遠藤さん)。→map
水位はじわじわと上がり、屋上も水につかった。水面は一時、4人の足元約50センチにまで迫った。
「もう、だめだ。死ぬな」。家族に形見を残そうと、青山さんは身に着けていたネクタイを支柱に結び付けた。
屋上に達した水は15分ほどで引き、夕方にはさらに水位が下がった。4人は3階に下り、四方の壁が残っていたトイレにこもった。座ると、衣服がぬれてさらに寒くなると思い、立ったまま夜を明かした。
女川町は女川港周辺にある3、4階建ての建物のうち、商工会館と女川消防署、観光施設のマリンパル女川を津波避難ビルに指定していたが、今回の津波で屋上まで水没しなかったのはマリンパル女川だけだった。
「高台に逃げろ」叫ぶ/町役場、直前まで無線放送
宮城県女川町中心部に津波が押し寄せている最中、町役場では2人の職員が防災無線で町民に避難を呼び掛けていた。役場庁舎の最上階、3階にある無線室が浸水するまで、放送は続いた。
気象庁が大津波警報を発令した3月11日午後2時50分ごろ、女川町企画課の臨時職員(当時、4月末で退職)の八木真理さん(36)は無線室に駆け込み、防災無線の放送を始めた。
「大津波警報が発令されています。沿岸部の人はただちに高台に避難してください」。警報発令に備えて用意していた原稿を手に、備え付けのマイクに向かって、繰り返し呼び掛けた。
放送を始めて約20分後、企画課防災係長の阿部清人さん(45)は庁舎2階にいた。海側の様子を眺めていると、沖にある高さ6メートルの防潮堤よりはるかに高い波しぶきが上がるのが目に入った。
すぐに、無線室に向かった。「大きな津波が押し寄せています。至急高台に避難してください」と放送用の原稿を替え、「余計なことは言わなくていい」と八木さんに伝えた。すぐさま、1階に駆け下りた。「全員、屋上に待避」。声の限り、職員に指示を出した。
無線室は庁舎西側にある。港の反対側に位置し窓からは海側の様子が見えない。「役場周辺の状況が全く分からず、すぐそばまで津波が来ていることも知らなかった」と八木さん。淡々と放送を続けた。
やがて役場も浸水し、2階に海水が上がってきた。阿部さんは再び、無線室に駆け込んだ。
「すごい水だ。放送を代わる」。八木さんは無線室を飛び出し、屋上に向かった。
阿部さんはマイクを握り、「高台に逃げろ」と2度、叫んだ。次の瞬間、無線室に海水が流れ込んできた。「これが最後の放送です」。阿部さんが次に言おうとした言葉を発する間もなく、放送機材と固定マイクが水没した。
阿部さんは腰まで水につかりながら無線室を出て、屋上にたどり着いた。職員ら当時庁舎内にいた約100人は屋上に逃げ、全員無事だった。屋上に登った最後の1人が阿部さんだった。→map