海岸から約950mだった常磐山元自動車学校のマップ

常磐山元自動車学校のマップ

 

大震災前後の常磐自動車学校の画像:Googleストリートビューより

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震災後の骨組みだけとなった常磐自動車学校の画像

震災前の常磐自動車学校の画像

宮城県山元町の自動車学校の悲劇は3月23日、河北新報社によって初めて報じられた

津波 自動車学校襲う 教習生ら24人死亡  <3月23日 河北新報>

免許取得シーズン◇教習生ら24人死亡

 東日本大震災で宮城県山元町坂元の「常磐山元自動車学校」が津波に襲われ、教習生や職員ら24人が死亡、14人が行方不明となっていることが分かった。3月は運転免許取得がピークの時期で、地震が発生した11日は卒業式を済ま
せた高校生らで混み合っていたという。
 同校には11日午後、学科・技能教習を受ける教習生が40人ほどいたという。地震発生後、教習を打ち切り、マイクロバスや教習者など7台に分分乗して校舎外に避難。そのまま相馬市や宮城県亘理町などに教習生を送る途中で、5台が津波にのみ込まれた。
 教習生が15人が死亡、12人が不明。職員はバスを運転していた4人と、海岸線から800㍍離れた校舎に残った5人の計9人が死亡、2人が不明となっている。
 バスを運転中に津波に遭い、教習生5人とともに助かった指導員菊池繁則さん(51)は「地震の数分後に校舎が停電となり、テレビが消えた。防災無線もサイレンも聞こえず、大津波警報が出ていることは全く分らなかった」と振り返る。自動車学校の岩佐重光社長(68)は「大切なお子さんを預かっていながら、津波から守りきれず申し訳ない」と話している。同校は教習生の安否確認を行っている。


3月28日、河北新報社は小さい扱いながらも、学校側の避難対応について報じた

学校、避難指示せず  親族対象に報告会  <3月28日 河北新報>


 宮城県山元町の常磐山元自動車学校で津波犠牲者が多数出たことについて、学校側は27日、町内の集会所で教習生の親族対象に報告会を開いた。生徒と職員を合わせた死者は32人、行方不明者7人(27日現在)で、学校側が津波避難指示を出していなかったことが報告された。
 報告会には親族約40人が出席。自動車学校の岩佐重光社長が陳謝した。
 学校側と生徒の話を総合すると、学校側は地震発生後、余震が続き校舎内が危険なことから学科・技能教習をいったん打ち切り、生徒を校舎外のバスに一時避難させた。
 その後、校舎が停電となったため教習継続が困難と判断。相馬市や角田市などへ、バスなど7台を出し送迎したという。
 送迎中に津波に遭い奇跡的に助かった高校3年の男子生徒(18)は「地震後まもなく消防の車が来て津波の警報を伝えていた。先生方も知っていたはず。なのに避難指示はなく40分以上バスで待たされた」と証言する。
 地震の際不在だった岩佐社長は「津波に対する避難誘導が行われず、通常の送迎をしてしまったようだ」と話している。





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4月22日、河北新報社は朝刊で「津波から生還 運命の岐路」と題する特集ページを掲載した。その中に、悲劇の送迎バスに乗ったところを降ろされて教習車に乗り換えたことで助かったという記事を紹介した。

津波から生還 乗れなかった送迎バス  <4月22日 河北新報>

 津波から生還したという記事なので、「津波から生還 乗れなかった送迎バス」というページを作成した。


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7月22日、毎日新聞社は関係者の証言を含めた当日の詳細な記事を発表した

送迎手間取り25人死亡…宮城の自動車学校  <7月22日 毎日新聞>

 宮城県山元町の常磐山元自動車学校は、送迎のワゴン車など7台のうち5台が津波にのまれ、
10代の教習生25人が死亡した。防災無線が大津波警報を告げ、避難を呼びかけていたにも
かかわらず、学校が送迎車を出発させたのは地震から40分余りたってから。しかも、車は通
常の送迎ルートをたどった。遺族は「対応の遅れと不適切さが最悪の事態を招いた」と指摘、
裁判で責任を追及する構えだ。

 ◇騒 然◇

 「先生、早く(車を)出して!」「やばい」。3月11日午後3時半すぎ、教官の運転で自動車学校を出たワゴン車が国道6号交差点に差し掛かった時、車内は騒然となった。3人の教習生と乗り合わせていた山元町の川越美幸さん(19)が振り返ると、黒い波が迫っていた。
しかし、信号は停電で消えており、2台のトラックが立ち往生して道をふさいでいた。
 「やばいのは分かってる」。教官がアクセルを踏んで急発進し、国道を山側に突っ切って逃れた。川越さんは「停車は一瞬だったが長く感じた。生きた心地がしなかった」と振り返った。

 ◇待 機◇

 3月は免許取得のピーク時期。自動車学校は高校を卒業したばかりの若者ら約40人でにぎわっていた。午後2時46分の地震発生後、建物の倒壊などを心配して外に逃れた教習生らは、寒さをしのぐため前庭に停車中のバス内で待機していた。学校が「午後4時から教習を再開する」と呼び掛けていたからだ。
 角田市の斉藤瞭さん(18)は、亘理町の早坂薫さん(当時18歳)とバス内に並んで座っていた。既に車内のラジオやサイレンを鳴らした車が高台への避難を呼び掛けていた。
 学校側が教習を打ち切り、送迎車で送り届ける方針を打ち出したのは、午後3時半ごろだった。教官から自宅の方向ごとに乗り換えるよう指示があり、斉藤さんは教習生3人とともに別のワゴン車に乗り込んで先発した。早坂さんの送迎車は同乗者が多かったため振り分けに手間取り、なかなか出発する気配がなかった。早坂さんに手を振った斉藤さんは「明日もまた会える」と思った。

 ◇漂 流◇

 斉藤さんを乗せた車は、海沿いの相馬亘理線を走った。学校から約1キロ進んだ時点で海の方を見ると、白い煙が立ち上っていた。
 「火事じゃね?」「津波!」。同乗の友人とそんな会話をした直後、ゴーッという地鳴りとともに「海が勢いよく迫ってきた」。教官がハンドルを切った途端、近くに止まっていた無人の車が波に流されて突っ込んできた。同乗の女子教習生2人がすすり泣いていた。その間にも、車は50~60メートル流された。ガラスが割れ、車内に泥水が入り込む。二波、三波と襲われ、車は次第に横転し始めた。
 「外に出ろ」。教官が叫び、斉藤さんは割れた窓から水中に飛び込んだ。車内に濁流が流れ込み、2人が沈んでいくのが見えた。斉藤さんも水中でもまれ、木や金属とぶつかりながら漂流し続けた。びしょぬれになって民家の上にいたところを救助されたのは、12日午前3時ごろだった。

 ◇後 悔◇

 「あの日、教習所に送り出さなければ」。早坂薫さんの母由里子さん(47)は悔やんでいる。11日午前、薫さんと2人で就職祝いのスーツを買いに出かけ、送迎バスが来る駅に送り届けたからだ。
 午後4時10分すぎ、父満さん(49)と薫さんの携帯電話が1度だけつながった。ゴボゴボと水の音がして、男みたいな声がした。「混線かな」と切ってしまったが、「もしかしたら娘だったかも」と激しい後悔に襲われた。以来、娘の携帯が通じることはなかった。薫さんは6日後の17日に遺体で発見された。
 「お子様を守りきれず申し訳ない」。自動車学校の岩佐重光社長は遺族に謝罪したが、4月中旬には弁護人を通じ「損害賠償責任は負わないと判断される」との文書を送りつけてきた。早坂さん夫婦は「生徒の安全を守るのが学校の責務。せめて高台に避難させてくれていれば」と話す。


10月14日に遺族が仙台地裁に提訴したことを同15日、河北新報は朝刊で報じた

教習生の遺族、自動車学校を提訴   <10月15日 河北新報>

 教習生の遺族、自動車学校を提訴
          19億円賠償求める

 東日本大震災で宮城県山元町の常磐山元自動車学校の教習生らが津波で死亡したことをめぐり、学校側の対応に安全配慮義務違反や過失があったとして、当時18~19歳だった教習生25人の遺族46人が14日、学校側や同校と保険契約を結ぶ財団法人に計約19億円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。

 訴えによると、学校側は3月11日午後2時46分の地震発生後、教習を再開するため、教習生に敷地内で待機するよう指示。停電で教習が再開できなくなり、同3時35分ごろから、送迎車数台に教習生を分乗させ帰宅させた。相馬市や宮城県亘理町、角田市へ向かっていた送迎車4台が津波にのみ込まれ、教習生23人や教官らが死亡した。
 路上教習で内陸部にいたのに、教官の指示で学校へ戻り、徒歩で帰宅させられた教習生2人も犠牲になったという。
 遺族側は(1)停電までの約30分間でテレビなどを通じて大津波警報発令を知っており、津波は予見できた(2)学校は海岸近くにあり、高台か内陸部に避難指示する義務があったのに怠った(3)災害対応マニュアルがなく、避難場所も決められていなかった―などと主張。
 遺族側によると、学校側の代理人からは書面で「あのような津波は予見できなかった。教習生は自らの判断で逃げることができた。学校側に責任はない」などと説明があったという。
 学校側の代理人は「この件についてはコメントできない」としている。
 遺族側は提訴後、仙台市青葉区の仙台弁護士会館で、遺影を手に記者会見した。長男佳祐さん(19)を亡くした遺族会代表の寺島浩文さん(49)=福島県新地町=は「避難する時間は十分にあったはず。(学校側は)危機管理の意識に欠けていた」と訴えた。

 さらに河北紙は宮城県内版紙面に関連記事を掲載した

 「天災ではなく人災」

  ◇遺影を胸に遺族切々◇

 遺族は遺影を抱え、失った家族への思いを募らせた。東日本大震災で常磐山元自動車学校(山元町)の教習生らが津波で亡くなったことをめぐり、教習生25入の遺族が14日、学校側などに損害賠償を求めた訴訟。記者会見で、避難誘導をしなかった学校側への怒りや訴訟に込めた思いを語った。 (29面に関連記事)

 「これは天災ではなく人災。子どもたちは学校から『授業を再開するから待っていろ』と言われたから、逃げなかった。
 『教習生は自ら避難することができた』という学校側の言い分は到底、通らない」
 亘理町の早坂由里子さん(48)は、穏やかに笑う長女薫さん(18)の遺影を手に語気を強めた。学校は海から約800㍍の場所にあり、交通手段も限られる。教習生の大半は送迎車を利用して、送迎車ごと津波にのまれた。
 薫さんは3人きょうだいで唯一の女性。親子で一緒にバレンタインデーのチョコを作るなど友達のように仲が良かった。 「どんな人と結婚するんだろうなと、楽しみにしていた」と涙ぐんだ。
 山元町の佐藤幸栄さん(53)は毎日、次女美幸さん(18)に線香を上げる。美幸さんは「医療事務の仕事がしたい」と夢を描き、4月に仙台市内の医療福祉専門学校に通い始める予定だった。
 美幸さんは地震発生当時、路上教習で内陸部にいた。防災無線から大津波警報が発令されていたが、教官は現地にとどまらず、学校へ向かった。
 佐藤さんは「安全な所にいたのに、なぜ海側の学校へ戻ったのか。悔しさと悲しさでいっぱい」と声を詰まらせた。
 岩沼市の佐野美智子さん(50)は長男公紀君(18)を失った。未熟児で産まれた公紀君。ボランティアをしたり、友人とキャンプをしたりする活発な青年に成長し、ことし2月、東北薬科大の入学試験に合格した。
 佐野さんは公紀君の遺影に誓った。
 「息子たち25入はなぜ、亡くならなければならなかったのか。事実をはっきりさせたい。学校側の謝罪なしに、この問題は終わらない」



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