宮城県南三陸町の防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町職員遠藤未希さん=当時(24)=の悲劇報道については当サイト:防災対策庁舎の悲劇のページにも掲載したが、2012年1月、遠藤未希さんの「天使の声」が埼玉県の公立高校の教材に載ることが報道されたので、遠藤未希さんに関する記事をこのページにまとめた。
志津川中学校への坂から見た防災対策調庁舎(さらに海側に公立志津川病院)【9月3日撮影】
遠藤未希さん(24)に関する記事は、河北新報社がこれまでに5度報じており、そのうちの4編を以下に紹介する。
住民救った 「高台に避難してください」 <4月12日 河北新報>
防災無線 声の主 姿なく
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
防災無線の呼び掛けが、多くの命を救った。だが、声の主の行方は震災から1カ月たった今も知れない。
3月11日午後2時46分、宮城県南三陸町の防災対策庁舎2階にある危機管理課。町職員遠藤未希さん(24)は放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握った。
「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」
防災無線が30分も続いたころ、津波は庁舎に迫りつつあった。「もう駄目だ。避難しよう」。上司の指示で遠藤さんたちは、一斉に席を離れた。
同僚は、遠藤さんが放送室から飛び出す姿を見ている。屋上へ逃げたはずだった。が、津波の後、屋上で生存が確認された10人の中に遠藤さんはいなかった。
南三陸町の住民約1万7700人のうち、半数近くが避難して命拾いした。遠藤さんは、多くの同僚とともに果たすべき職責を全うした。
遠藤さんは1986年、南三陸町の公立志津川病院で産声を上げた。待望の第1子に父清喜さん(56)と母美恵子さん(53)は「未来に希望を持って生きてほしい」との願いを込め「未希」と命名した。
志津川高を卒業後、仙台市内の介護専門学校に入学。介護の仕事を志したが、地元での就職を望む両親の思いをくみ、町役場に就職した。同僚は「明るい性格。仕事は手際よくこなしていた」と言う。
2010年7月17日、専門学校で知り合った男性(24)と、町役場に婚姻届を出した。職場仲間にも祝福され、2人は笑顔で記念写真に納まった。
両親は当初、2人姉妹の長女が嫁ぐことに反対だった。「どうしてもこの人と結婚したい」。男性が婿養子になると申し出て、ようやく両親も折れた。ことし9月10日には、宮城県松島町のホテルで結婚式を挙げる予定だった。
美恵子さんは「素直で我慢強い未希が人生で唯一、反抗したのが結婚の時。それだけ、良い相手と巡り合えたのは幸せだったと思う」と語る。
遠藤さんの声は、住民の記憶に刻まれている。
山内猛行さん(73)は防災無線を聞き、急いで高台に逃げた。「ただ事ではないと思った。一人でも多くの命を助けたいという一心で、呼び掛けてくれたんだろう」と感謝する。
娘との再会を果たせずにいる清喜さんは、無念さを押し殺しながら、つぶやいた。
「本当にご苦労さま。ありがとう」
◇◇◇
震災後の対応に忙殺され、市町村職員の死者・行方不明者数はいまだに実態が把握されていない。
二つ目は5月2日、上の記事で紹介された遠藤未希さんの遺体が発見された記事だ
最後まで避難呼び掛け 不明の職員遺体発見 <5月2日 河北新報>
東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町の職員で、最後まで防災無線で町民に避難を呼び掛け、行方不明になっていた遠藤未希さん(24)とみられる遺体が志津川湾で見つかった。
父清喜さん(56)や母美恵子さん(53)らによると、遺体は4月23日、志津川湾に浮かぶ荒島の北東約700メートルの地点で捜索隊が発見した。
両親や昨年7月に結婚した夫(24)が遺体を写真で確認し、左足首に巻かれているオレンジ色のミサンガや、右肩付近のあざなどの特徴が遠藤さんと一致したという。ミサンガは夫からのプレゼントだった。
家族は死亡診断書が届き、遺体が遠藤さん本人と確定し次第、遺体を火葬し、葬儀を営む予定。
遠藤さんの実家も津波で被害を受けた。両親は避難所で暮らしながら、手掛かりを求めてがれきの街を捜し回り、遺体安置所の町総合体育館に通い続けた。
美恵子さんは3月下旬、遠藤さんが水中で亡くなっている夢を見た。「未希が『早く捜してほしい』と、助けを求めていると思った。亡くなったことはつらいが、遺体が見つかり、家に迎え入れることができるだけでもよかった」と言う。
清喜さんは「家に帰って来てくれれば、いくらかでも気持ちは違うと思う。今も行方不明の方々がいることを考え、葬儀はしめやかに行いたい」と話した。
遠藤さんは3月11日午後2時46分から約30分間、防災対策庁舎2階にある放送室から防災無線で「高台に避難してください」「異常な潮の引き方です。逃げてください」などと呼び掛け続けた。津波が庁舎に迫ったため放送室を出た後、行方が分からなくなっていた。
三つ目は、9月に結婚式を控えていた遠藤未希さん(24)にささげる歌が披露されるという記事で、6月10日の紙面に掲載された
挙式控え犠牲、防災無線の職員追悼 <6月10日 河北新報>
天国へウェディングソング
防災無線で住民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった宮城県南三陸町職員遠藤未希さん(24)にささげる歌が震災発生から3カ月となる11日、同町で披露される。9月に結婚式を控えていた遠藤さんの思いが伝わるようなバラード。自ら作詞した東京都の歌手水戸真奈美さん(28)=宮城県柴田町出身=は「勇気ある行動をした未希さんのことを忘れてほしくない。被災地の復興も願い、歌う」と誓う。
宮城県柴田町出身の歌手 あす披露
◇花嫁の思いを紡ぐ◇
曲名は「WEDDING ROAD」。作詞した時点で、水戸さんは震災の犠牲となった遠藤さんのことを知らず、遠藤さんを意識して作ったわけではなかったという。
しかし、5月に南三陸町を訪ねた際、遠藤さんの両親の知人から「歌で慰めてほしい人がいる」と頼まれ、遠藤さんの実家に案内された。
父清喜さん(56)、母美恵子さん(53)らと会い、専門学校で知り合った男性(24)と挙式予定だったことなどを知った。
「WEDDING ROAD」の歌詞が、まるで遠藤さんの言葉のように思えてきた。手話を熱心に学ぶなど自分との共通点も見いだした。
水戸さんはその場で、遠藤さんの遺影を見つめて歌った。「磁石のようにひかれ合った二人の未来 手を離さないようにこれからも握り続ける」
「たくさんの愛で育ててくれたね 二人の娘であること感謝します…ありがとう」。歌詞に込めた気持ちを伝えるため、手話を交えた。遠藤さんの両親や親類は静かに聞き入っていた。
水戸さんは「遺影の前で歌い終え、『遠藤さんのための曲だったんだ』と不思議な運命を感じた。本人になったつもりで、両親に歌をささげた」と振り返る。
歌は11日午後7時から、南三陸町のホテルで披露される。
遺族、悲しみ癒えぬまま「庁舎見るのつらい」
震災からほぼ3カ月がたった今も、遠藤さんの両親の悲しみは癒えない。町内の仮設住宅の抽選に当選したが、入居を辞退した。住宅からは、遠藤さんが最後まで避難を呼び掛けていた防災対策庁舎が見えるからだ。
母美恵子さんが、遠藤さんと最後に会った記憶にも庁舎が映る。大震災前日の3月10日、庁舎近くで石巻市内から通っていた遠藤さんに会い、2時間ほど会話をした後、「明日(11日)は実家に泊まるから」と言われ、楽しみにしていた。「庁舎を見るのはつらく、仮設住宅には住めない」と美恵子さん。
全国から寄せられる称賛や追悼の声。両親は「多くの人が未希を思ってくれるのはありがたい」と語る半面、「そっとしてほしいという思いもある」と打ち明ける。
埼玉県が県内の公立小中学校約1250校の道徳の教材として遠藤未希さんの「人への思いやりや社会へ貢献する心」を伝えることになったことが26日に分かり、河北新報社は27日の朝刊で伝えた。
「天使の声」と題した教材を紹介する記事は、遠藤さんのこれまでの貢献の様子とともにあの大地震直後からの献身的な行動と悲劇までの一部始終が綴られており、目頭が熱くなる。
南三陸町職員の遠藤さんが教材に <1月27日 河北新報>
避難呼び掛け犠牲 遠藤さんが教材に
宮城県南三陸町の防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲になった町職員遠藤未希さん=当時(24)=が埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材に載ることが26日、分かった。
埼玉県教育局によると、教材は東日本大震災を受けて同県が独自に作成。公立の小中高約1250校で使われる。
遠藤さんを紹介する文章は「天使の声」というタイトル。遠藤さんが上司の男性と一緒に「早く、早く、早く高台に逃げてください」などと必死で叫び続ける様子が描かれ、「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」と語る町民の声を紹介している。
教材ではほかにも、埼玉県深谷市出身で津波に流される車から市民を救出した釜石市の男性職員の話などが掲載される予定。
「思いやり伝えたい」
同教育局生徒指導課の浅見哲也指導主事は「遠藤さんの使命感や責任感には素晴らしいものがある。人への思いやりや社会へ貢献する心を伝えたい」としている。
遠藤さんの父清喜さん(57)は「娘が生きた証しになる」と話し、母美恵子さん(53)は「娘は自分より人のことを考える子だった。子どもたちにも思いやりの心や命の大切さが伝わればいい」と涙を流した。
遠藤さんが防災無線で避難を呼び掛け続けた南三陸町の防災対策庁舎では、遠藤さんを含む町職員ら39人が犠牲となった。佐藤仁町長が津波被害の象徴として保存の意向を示したが、遺族の強い反発を受けて解体が決まっている。【上の記事画像をクリックすると拡大画像(PDFファイル:498KB)が開きます】
「天使の声」 教材の要旨
遠藤未希さんを紹介した教材の要旨は次の通り。
◇天使の声◇
誰にも気さくに接し、職場の仲間からは「未希さん」と慕われていた遠藤未希さん。その名には、未来に希望をもって生きてほしいと親の願いが込められていた。
未希さんは、地元で就職を望む両親の思いをくみ、4年前に今の職場に就いた。(昨年)9月には結婚式を挙げる予定であった。
突然、ドドーンという地響きとともに庁舎の天井が右に左に大きく揺れ始め、棚の書類が一斉に落ちた。
「地震だ!」 誰もが飛ばされまいと必死に机にしがみついた。かつて誰も経験したことのない強い揺れであった。未希さんは、「すぐ放送を」と思った。
はやる気持ちを抑え、未希さんは2階にある放送室に駆け込んだ。防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。 「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」。未希さんは、同僚の三浦さんと交代しながら祈る思いで放送をし続けた。
地震が発生して20分、すでに屋上には30人ほどの職員が上がっていた。すると突然かん高い声がした。
「潮が引き始めたぞぉー」
午後3時15分、屋上から「津波が来たぞぉー」という叫び声が聞こえた。未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上がった。そして、必死の思いで言い続けた。「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」。重なり合う2人の声が絶叫の声と変わっていた。
津波はみるみるうちに黒くその姿を変え、グウォーンと不気味な音を立てながら、すさまじい勢いで防潮水門を軽々超えてきた。容赦なく町をのみ込んでいく。信じられない光景であった。
未希さんをはじめ、職員は一斉に席を立ち、屋上に続く外階段を駆け上がった。その時、「きたぞぉー、絶対に手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。津波は、庁舎の屋上をも一気に襲いかかってきた。それは一瞬の出来事であった。
「おーい、大丈夫かぁー」「あぁー、あー…」。力のない声が聞こえた。30人ほどいた職員の数は、わずか10人であった。しかしそこに未希さんの姿は消えていた。
それを伝え知った母親の美恵子さんは、いつ娘が帰ってきてもいいようにと未希さんの部屋を片づけ、待ち続けていた。
未希さんの遺体が見つかったのは、それから43日目の4月23日のことであった。
町民約1万7700人のうち、半数近くが避難して命拾いをした。
5月4日、しめやかに葬儀が行われた。会場に駆けつけた町民は口々に「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろう」と、涙を流しながら写真に手を合わせた。
変わり果てた娘を前に両親は、無念さを押し殺しながら「生きていてほしかった。本当にご苦労様。ありがとう」とつぶやいた。 出棺の時、雨も降っていないのに、西の空にひとすじの虹が出た。未希さんの声は「天使の声」として町民の心に深く刻まれている。